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政治哲学はなぜ必要なのか——デイヴィッド・ミラー『はじめての政治哲学』を読む

変化する政治哲学のアジェンダに関するもう一つの例として、個人の選択に我々が現在付与している価値について考えてみよう。人々には自らの仕事、自分のパートナー、自分が信じる宗教、自分が着る衣服、自分が聞く音楽、その他諸々のことを選択する自由があるべきだ、と我々は思っている。各人は自分に最も相応しい生活のスタイルを発見もしくは創造すべきだ、と考えているのである。だが、生命を維持するためにはほとんどの人が(職業選択の余地があまりなく、娯楽も少なく、共通の宗教を抱くといった)両親と同じ生き方をせざるをえないような場所では、こうした考えにどれほどの意味があるというのだろうか。こうした場所では、ほかの価値にもっと重要性があるのだ。しかもこれが人類史のほとんどにおいて人間社会が置かれていた状況なのであり、したがってここ最近の二世紀においてのみ、個人の選択という至高の価値を中心に置いた政治哲学(たとえば第四章で論じる予定の、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』)がみいだされるとしても、ほとんど驚くに値しないのである。

デイヴィッド・ミラー『はじめての政治哲学』山岡龍一・森達也訳, 岩波書店, 2019. p.26.

デイヴィッド・ミラー(David Leslie Miller、1946 - )はイギリスの政治学者。専門は、政治哲学、政治理論。ケンブリッジ大学卒業後、オックスフォード大学で修士号および博士号取得。現在、オックスフォード大学ナフィールド・カレッジ教授。本書『はじめての政治哲学(原題:Political Phylosophy: A Very Short Introduction)』(2003年)は、哲人の言葉に頼ることなく、ごく普通の人々の言葉、意見、情報を手掛かりに政治哲学を論じた入門書である。政治を考えるときの基本事項から、今実際に政治の現場で議論されているトピックまで、政治理論の基礎が簡潔にまとめられたテキストである。章立てでは、政治的権威、デモクラシー、自由と統治の限界、正義、フェミニズムと多文化主義、ネイション・国家・グローバルな正義などが並ぶ。

序論「政治哲学はなぜ必要なのか」において、ミラーは14世紀のあるフレスコ画(ロレンツェッティの「善き統治と悪しき統治の寓意」)の話から始める。この絵画は三つの主題を表している。

第一の考えは、善き統治と悪しき統治が人間の生の質に深く影響を与える、というものである。つまり、我々が善く統治されるか、もしくは悪しく統治されるかによって、我々の生活は本当に違ってくるというものだ。政治に背を向け、私的な生活へと退却し、我々が統治される仕方は自分の私的な幸福に大した影響を与えないだろう、と思い描くことはできない。

第二の考えとは、我々の統治の形態はあらかじめ決定されていない、というものである。つまり、我々には選択の余地がある。我々は統治者を監視する義務がある。もし統治者が自らの民衆に対する義務を怠るなら、あるいはもし自分たちの代表者を監視し続けるという己の義務を民衆が怠るなら、その帰結は悪しきものになるだろう。

第三の考えとは、善き統治と悪しき統治を見分ける知識は獲得できる、というものである。つまり、異なった形態の統治が生み出す諸結果を、その根源にまでさかのぼることができるのであり、最善の統治形態を構成する特質が何であるかを学べるのだ。

ここでミラーが「統治」について語るとき、意味しているのは「当世の政府」(ある特定の社会の中で権威を持っている人々の集団)よりも広いものを指している。つまり「国家」(内閣、議会、法廷、警察、軍隊などといった政治制度)よりも広い意味を持つ。その意味するところは、ルール、慣行そして制度の総体なのであり、その導きの下で我々は社会の中で共存しているのである。

政治哲学の中心的問題の一つが、そもそもなぜ国家は、あるいはもっと一般的にいってなぜ政治的権威は必要なのか、という問いである。そしてもう一つの問いは、たった一つの政府があるべきなのか、もしくは多くの政治があるべきなのかという問い、すなわち、人類全体にとっての単一の体制があるべきなのか、もしくは異なった人々には異なった体制があるべきなのかという問いである。

例えば前世紀の興亡した体制について考えてみよう。つまり、ドイツにおけるナチスとこの体制によって殺された600万人のユダヤ人について、もしくは毛沢東の中国と、いわゆる「大躍進運動」が惹き起こした飢饉の結果死んだ2000万人以上といわれる人々についてである。その同時代のほかの国の中には、国民全体の生活水準が先例のない度合いで向上した国もあったのである。

第二の問い、つまり我々の統治形態はあらかじめ決定されていない、あるいは我々には選択の余地があるということについて考えてみる。はたして、自分を統治している体制に我々はどの程度まで影響を及ぼすことができるのであろうか。あるいは、こうした体制は連なる鎖の輪のようなもので、我々の制御の及ばないより深層に存する原因によって支配されているものなのだろうか。

社会が統治される様態は人間の制御下にはない社会的な原因に左右されるという主張は、マルクス主義によって代表される。それは、社会の発展は究極的には人々が物質的な財を生産する様式(使用された技術や採用された経済システム)に依存するという考えである。歴史の結果をみると、この種の決定論は間違っていたと言わざるを得ない。政治はかなりの程度で経済から、あるいはもっと一般的にいうなら社会の発展から独立していた、ということになる。このことが意味するのは、民衆が狭い意味での統治形態についてのみならず、自分らの社会が構成される仕方というより広い意味での統治形態についても、重大な選択をしていたということである。

一党支配制国家か、もしくは自由な選挙を伴うリベラル・デモクラシーか、中央統制経済か、もしくは自由市場経済か。こうしたことが、政治哲学者が答えようと努めている問いであり、こうした問いが現在再び議論の主題となっている。このような問い直しの過程で、我々の生の質にとって究極的な価値は何であるのか、そしてそうした目的をどのようにすれば達成できるのか、という問いを政治哲学者は掲げているのであり、これが政治哲学の核心的な問いなのである。

政治家と異なり、政治哲学者は政治の目標そのものに光をあて、それらの中でどれが本当に究極的な目標であるかを問う。また、政治哲学者は、政治家が提示するリストの中にある異なった目標が、互いにどのような関係にあるかも問うだろう。政治哲学のアジェンダは社会や統治が変化するにつれて変わるのだが、そのいくつかの要素は、我々が歴史から知るかぎり昔からずっと変わらないままである。そもそも、いったいなぜ我々は政治を必要とするのか。誰かが他者に対して、その人の意思に反して何ごとかを強制するような権利とはどのようなものか、わたしが気に入らないときでも法律に従うべきなのはなぜか、といった問いである。こうした永続的な問いに関して、根本的に考え抜くことが政治哲学の目標であり、それは私たちの「生」の質に直結することであろう。


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