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平凡なる人生はすでに十分劇的である——福田恆存の『人間・この劇的なもの』の演戯論

ハムレットのように、力強く、生き生きと生き、人生を創造している人間も、最後には「全体」の前に敗北してしまう。勝利するのは「全体」なのである。
もちろん、ここでの「全体」とは、全体主義的な政治体制を意味するのではない。そうではなく、神のような、超越的で未知なる存在を意味している。人間・個人を超えた大いなる存在である。
このように述べて福田は、前述の問いに一つの解答を与える。つまり、演戯による創造は、人生を豊かにすると同時に、素顔と仮面との間の相克、つまり人格の分裂という喜悲劇を招いてしまう、という問題である。
福田の解答は、こうである。素顔の自分は、平凡で、劇的ではない。したがって人々は、仮面をかぶり劇的な人生を意識的に創造しようとする。しかし、ここにすでに間違いが含まれている。実は、素顔の自分も、十分に劇的なのである。どんな人間・個人も、「全体」によって、ある役割・役柄を与えられている。「全体」の描くストーリーの中の登場人物なのである。したがって人間・個人は、自分で自分の人生を劇化=必然化する必要はない。一見偶然に思えるこの断片的な人生も、「全体」の「部分」としてある必然を担っているのである。ただ、人間・個人は、「部分」であるがゆえに、「全体」の描くストーリーを対象的に認識することができないだけなのだ。

川久保剛『福田恆存:人間は弱い』ミネルヴァ書房, 2012. p.159-160.

福田恆存(ふくだ つねあり、1912 - 1994)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。日本芸術院会員。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事などを務めた。本書『福田恆存:人間は弱い』は麗澤大学教授の川久保剛氏による福田恆存の評伝である。

福田は1930年、旧制浦和高等学校文科甲類入学。当時の旧制学校は昭和恐慌もあり同盟休校が盛んに行われた「シュトゥルム・ウント・ドランク」(疾風怒濤)の時代だったが、福田自身は左翼的な学生運動には関わらなかった。小説から戯曲に関心を移し、高校時代に劇作家を志した。1933年、東京帝国大学文学部英吉利文学科(英文科)入学。高校末期から大学初期にかけ執筆は劇作から批評に重きを置いた。これは小林秀雄の影響によるものだが、福田自身は小林の影響がこれ以上及ぶことを恐れ、「小林秀雄との絶縁を心にかたくきめた」という。以後、福田は、終戦後まで小林の本を一冊も買うことがなかった。

福田の活動は文芸評論、そして劇作家・演出家と多岐にわたっている。昭和20年代の半ばから、福田は〈生命主義〉に基づいた人間・社会観を発展・深化させていった人間は平凡で、弱い。その人間の生を支え、それに力を与えてくれるものを〈生命主義〉の観点から追求していったのである。さらにそれは「演戯論」に発展する。人間は、演戯の力によって、人生を主体的に創造していくことができる、と福田は考えた。そして、その演戯の力の原動力となっているのが、生き生きと生きたいという生命力だと福田は考えていた。

福田は昭和28年から29年にかけて、アメリカ・イギリスに留学する。そして本場のシェイクスピア劇に触れることで大きな収穫を得る。本場のシェイクスピア劇を通してその魅力を再発見し、みずからの演劇理念に磨きをかけることになった。帰国後、昭和30年に「ハムレット」を文学座により演出・上演する。ハムレットを演じたのは芥川比呂志である。これは大成功を収めた。

同じ頃、福田は主著となる『人間・この劇的なるもの』(1956年)を書いている。この中で福田は「個人の恣意や情念が、その極限まで刺激され追求されたあとで、かならず全体の名により罰せられ滅ぼされていく」と書き、人間の中の二つの相反する欲望について書いている一つは「個人」としての自由に生きたいという欲望であり、もう一つは「全体」の部分として「全体」に仕えることによって生きたいという欲望である。そして、演劇は、人間の根本に存在する矛盾・対立する二つの欲望を同時に満たすものである、と福田は言う。福田はここに、演劇の「カタルシス」、つまりその「生命的価値」の本質を見ていた。

ハムレットのように、力強く、生き生きと生き、人生を創造している人間も、最後には「全体」の前に敗北する。ここでいう「全体」とは超越的で未知なる存在、大いなる存在や「宿命」のようなものである。演戯による創造は、人生を豊かにすると同時に、素顔と仮面との間の相克をあらわにする。それは一種の喜悲劇である。しかし、福田はこのように言う。素顔の自分は平凡で劇的ではないと思えるかもしれない。しかし実は素顔の自分も、十分に劇的なのである。どんな人間も「全体」によって、ある役割を与えられている。人間は自分で自分の人生を劇化する必要はない。一見偶然に思えるこの断片的な人生も、ある意味「全体」としての必然の一部なのだと

自分は「全体」の筋書きの中で一定の位置を占めているという実感、つまり「宿命感」が、逆説的に人びとに「自由感」を与えてくれる。それは安心感ということでもあるだろう。福田は『人間・この劇的なもの』の中でこのようにいう。「個人としての自分よりは、全体を信じるしかなく、そうすることによってしか、自分を信じることはできぬであろう」と。こうして人びとは、自分の人生の意味にとらわれることなく、自由闊達に、のびのびと生きることができる。福田はその見本を、やはりハムレットに見ていた。ハムレットのように、人間・個人を超えた「全体」を感じながら、「個人」として力一杯生きることが、真に劇的なる人生をもたらしてくれる。福田の演戯論は、このように〈生命主義〉に裏打ちされ、シェイクスピア劇によって平凡なる人生をも力強く肯定する哲学へと昇華されていったのだった。


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