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アウシュヴィッツの後で道徳はいかに可能か——アレントの考えた「共通感覚」

さらに一般的には、すべての分野で判断力の欠如があらわになると言うことができます。知的(認識にかかわる)問題についての判断力の欠如は、愚昧と呼ばれます。美的な領域での判断力の欠如は、趣味の欠如と呼ばれます。行動の領域での判断力の欠如は、道徳的な愚鈍または不健全さと呼ばれます。これらのすべての欠陥の正反対のもの、そして判断力を行使する際の源泉となるもの、これをカントは共通感覚(コモンセンス)と呼びます。カント自身は主として美的な判断力を分析しました。真理であることを証明できる一般法則も、それだけで自明な一般法則もなしで、わたしたちが判断を下す唯一の領域は、美と趣味にかかわる領域だと考えたからです。(中略)
カントにとって共通感覚とは、すべての人間に共通した感覚を意味するものではありませんでした。厳密には共通感覚とは、わたしたちが他人とともに共同体のうちで生活できるようにする感覚であり、共同体の一員としてわたしたちが自分の五感を使って他者と意志の伝達が行えるようにするものでした。(中略)
わたしがある共同体の一員であるのは、この共通感覚をそなえることによってであり、そのためにこうした妥当性を共同体の全体に期待することができるのです。自分が世界の市民だと考えていたカントは、これがすべての人類の共同体において妥当することを期待していました。カントはこれを「拡張された心性」と名づけています。

ハンナ・アレント『責任と判断』ジェローム・コーン編, 中山元訳, ちくま学芸文庫, 2016. p.225-228.(太字強調は筆者による)

アウシュヴィッツのあとでまだどのようにして倫理が可能であるのか。このテーマに応えようとしたのが、ハンナ・アレントの『責任と判断』に収載されている「道徳哲学のいくつかの問題」という文章である。これは1965年にアレントが教授をつとめていたニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ校で開講された長い講義の記録である。冒頭に引用したのは、その連続講義の第四講において、カントの判断力と共通感覚についての説明をしている部分である。

第二次世界大戦とその戦後の世界で、道徳原則が二回崩壊した。第三帝国においては、人間は善悪を判断する道徳的な〈器官〉のようなものとしての良心という声を心のうちにそなえていて、何をなしてはならないかは、誰もが自明のこととして判断できるというそれまでの想定が、完全に覆されてしまった。そして、ナチス・ドイツが崩壊すると、それまで前提となっていた道徳的な原則は完全に崩壊し、また昔の原則が採用されたのだった。アレントはこのような二回にわたる道徳的な崩壊を避けることができた少数の人々に注目しながら、それがどのようにして可能だったのかを哲学的に考察している。

第一講ではカントの定言命法を例にとりながら、近代の道徳哲学では、人間に理性があること、実践理性が人間の行動を律し、善悪の判断が可能であることを素朴に想定していたことを指摘する。そして古代のアリストテレスやトマス・アクィナスの哲学を考察しながら、道徳というものがふつうに考えられるように、他者との関係であるよりも、「自己」との関係であることに注目する。

第二講では、この道徳と自己の関係の特異な性格を考察しながら、第三帝国においてナチスの命令に逆らって、道徳的な無垢を維持することができた人々が採用したのは、「わたしにはどのような理由があろうとも、そんなことはできない」というものだったことに注目する。アレントはこの根拠を哲学的に解明することで、それはソクラテスの示した命題だったことをつきとめる。つまり、不正をなさないのは自己と、すなわちわたしという一人のうちにいるもう一人の人物と仲違いをしないためという道徳律である。

第三講では、アレントはまず、人間の思考という営みと、行為という営みの違いを明確にする。思考することの本質は「孤独」つまり単独性にある。思考という営みは孤独であることが重要な条件なのであり、思考のうちにはどこか非人間的な側面があるのである。しかし、人は行為を始めた瞬間から、誰もが他者のうちで人間の複数性のうちでふるまわざるをえない。そして道徳があくまでも自己との関係にすぎないならば、ソクラテスの掟だけで十分であるが、他者との関係で罪の意識が生じる場合には、ソクラテスの掟はもはやその力を失ってしまう。また、キリスト教的な「汝の敵を愛せ」という道徳は、他者へと向かう積極的な掟のようにみえるが、実は人間の意志に固有の分裂に襲われているために、世界のうちで複数の他者と行動する際の人間のふるまいを律することのできる道徳性の原則とはなりえない。

それでは、これとは異なるどんな道徳的な原則が可能だろうか。それをアレントは第四講で示す。アレントは意志の概念を手がかりに、カントの「判断力」の概念を展開する。判断力とは人間に固有の能力のうちでは、教えることのできない特別な性格の能力であり、とくに美的な判断と趣味の判断のうちに示されるものだ。アレントは、この判断力を支えているのは、一つの共同体の内部ですべての人にそなわっていることが期待できる「共通感覚(コモンセンス)」であることを指摘する。道徳的な行動の原則をソクラテスのような消極的な原則や、他者のまなざしを拒むイエスの原則でないところに見いだすことができるとすれば、それはカントが美的な判断のうちに想定した共通感覚を土台にするしかない。そして善と悪を判断するときに役立つのは、こうした共通感覚の歴史のうちで作り上げられた、さまざまな「手本」を参考にするしかない、とアレントは考えたのである。

戦後のドイツでは、ヤスパースの『戦争の罪を問う』をはじめとして、さまざまな責任論が展開された。アレントはヤスパースのこの書物を高く評価していたものの、安易な「責任」の感じかたとひきうけかたには、陥穽があることを痛感していた。アレントは責任をとるのであれば、さまざまな種類の収容所の廃止など、政治的な要求にまで徹底する必要があると指摘する。同時にナチスの犯罪は人間が「責任」などをとることのできないもの、語ることもできないものであり、その「途方もない恐ろしさ」を問うことこそが求められていると感じていた。

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