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鳥の劇場の戯曲『葵上』を観る:繊細さと滑稽さの絶妙なバランス

鳥取市にある鳥の劇場で三島由紀夫の戯曲『葵上』を観た。
これが、この数年観た演劇の中で、ダントツに面白かったので所感を記しておきたい。

『葵上』は、三島由紀夫の「近代能楽集」に収められている作品で、もともとは源氏物語のお話であるが、それが能楽『葵上』となったものだ。
三島は、その能楽としての演目をさらに現代風にアレンジして、見事な戯曲として完成させた。
源氏物語の初出が1008年であるから、1000年以上の昔より語り継がれ、演じ続けられている古典であるにも関わらず、その内容はまったく古さを感じさせない。

あらすじはこうだ。

入院して毎夜苦しむ妻葵のもとへ、夫の若林光が見舞いに訪れる。そこへ、かつて光と恋仲であった六条康子が現れる。康子は幸福だった昔の思い出を語りつつ光に復縁を迫るが、光はこれを拒絶し、康子は姿を消す。ところが、光が康子の家に電話をかけると、康子は家で寝ていたと言う。先ほど現れたのが生霊だったと知り、呆然とする光だったが……

文化デジタルライブラリーよりhttps://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc14/aoinoue/etc/geinou/aoi02.html

1000年たっても、男女の痴情のもつれというのは変わらないものである。
一言で要約すると、元カノが今カノに嫉妬して、呪い殺してしまうお話。
今回の鳥の劇場で演出をした中島諒人さんは「真夏の怪談というイメージ」と述べている。さもありなん、この世で最も怖いのは、人の恨み・嫉妬・怨念ではないだろうか。

「葵上」は、基本的に、わずか3人しか登場人物がいないのだが(若林光、六条康子=元カノ、葵=今カノ(妻))、三角関係はいつも面白いものである。しかも、葵はベッド上で悶えるだけで台詞はないので、実質的には光と康子の二人だけのお芝居である。
にも関わらず、心の底から震えが来るほどに面白く、この物語に魂が引きずり込まれてしまった。
いったい、なぜこんなにも心が揺さぶられるのだろうか。

中島さんの演出も、ぶっ飛んでいた。
「歌謡曲バージョン」と銘打たれた今回の作品では、康子の登場シーンに都はるみの「北の宿から」がBGMで流れ、光と康子のラブラブな回想シーンでは、松田聖子の「赤いスイートピー」が流れる。
その滑稽さやちぐはぐさが、康子の繊細な激情を際立たせる効果を持っていた。康子を演じるのは顔を白塗りした男性の俳優である。その大柄な身体と野太い声から発せられる怨念の言葉……。
「北の宿から」の『着てはもらえぬセーターを/寒さこらえて編んでます』という演歌的な女の未練が、三島の倒錯的な戯曲世界で展開される、この絶妙な滑稽さ・面白さ……。

康子の口から語られる屈折した愛情/情念は矛盾をはらんでいる。

私の檻のなかで、私の鎖のなかで、自由を求めてゐるあなたの目を見ることが、あたくしの喜びだったの。そのときはじめてあなたを本当に好きになったんだわ

この屈折し矛盾するような情念は、性的衝動(リビドー)だろうか、はたまた、愛というものが本質的に避けられない袋小路なのだろうか。

高飛車な物言いをするとき、女はいちばん誇りを失くしているんです。女が女王さまに憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持っているからだわ

高飛車である女ほど、いちばん誇りをなくしている。
愛は常に矛盾をはらみ、人間は本当の思いと裏腹な行動をとってしまうもの。相手が好きで好きでたまらないからこそ、相手を苦しめる。

この作品は、物語性が持つ力強さと、三島由紀夫の繊細な文学的エッセンスに加えて、中島諒人氏の滑稽で大胆な演出が混じり、唯一無二の体験が味わえる傑作である。
是非、この体験を、鳥の劇場で味わってほしい。

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