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秘密めいたシフトチェンジと生の内奥性―「ドライブ・マイ・カー」を読む

村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』を読んだ。

彼の小説を読むとき、心の深奥にある何かに触られるような気がする。

いつもは隠されている、密やかな感情、あるいは覆われている生の真実めいた姿が、淡々とした筆致の運びの中で、いつしかむき出しに露わにされてしまう。

家福は彼の言ったことについてしばらく考えた。そして言った。「でもそれはあくまで一般論だ」
「そのとおりです」と高槻は認めた。
「僕は今、死んだ妻と僕との話をしているんだ。それほど簡単に一般論にしてもらいたくないな」

私たちの生が一般論にからめとられるとき、私たちの生の唯一性あるいは固有性が失われる。それは、誰かが生きた誰かの人生に関する話になる。

ある夫婦の、ある女と男のどこにでもあるような話。

しかしそこに本当にあるのは、一般論ではない、唯一の「私」の物語だ。

小説あるいは物語というのは、いつもそうしたものを描いているのだろう。一般論で語られた男女の関係性は「意味」を生まない。いつも、この私にとって「意味」を生む言葉というのは、歴史的時間や客観性にからめとられた抜け殻のような一般論ではないのだ。

誰にも露わにされていない、心の中の私だけの秘め事のような状況。これこそが生の唯一性あるいは固有性なのだが、それをエマニュエル・レヴィナスは「内奥性」と呼んだ。この「内奥性」こそが私たちの生を基礎づけるのであるが、それは誰にも明かされていないからこそ、絶対的な「他者」を欲望する。決して満たされることのない欲望である。

『ドライブ・マイ・カー』も、そんな物語だ。主人公の家福が欲望しているのは、亡くなった妻という他者であり、妻の謎めいた行動の理由を知ることであり、決して埋められることのない心の穴であり、決して縮まることのない友人・高槻との距離である。

家福の車を運転する女性・みさきのシフトチェンジは、密やかに、気づかないくらい滑らかにおこなわれる。

家福は革のシートに深く身を沈め、目を閉じて神経をひとつに集中し、彼女がおこなうシフトチェンジのタイミングを感じ取ろうと努めた。しかしやはりそれは不可能だった。すべてはあまりに滑らかで、秘密めいていた。

それは、生の内奥性そのものであり、一般論にも客観性にも歴史的時間にも無縁な、奥深くの、密やかな、秘密めいた私たちの「生」は、気づかれないうちにシフトチェンジするのである。



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