見出し画像

愛知者は死にどのように臨むべきか——プラトン『ソクラテスの弁明』を読む

アテナイ人諸君、諸君が私の指揮者として選任した上官が私に指定した持場には、ポティダイヤでもアンフィポリスでもまたデリオンでも、他の何人にも劣らずこれを固守して死の危険に面した私であるのに、今もし神から受けた——と自ら信じかつ思っている——持場を、換言すれば愛知者として生き自己ならびに他人を吟味することを、死もしくはその他の危険の恐怖のために抛棄したとすれば、私の行動は奇怪しごくというべきであろう。(中略)なぜならば死を恐れるのは、自ら賢ならずして賢人をを気取ることに外ならないからである。しかもそれは自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。思うに、死とは人間にとって福の最上なるものではないかどうか、何人も知っているものではない、しかるに人はそれが悪の最大なるものであることを確知しているかのようにこれを怖れるのである。しかもこれこそまことにかの悪評高き無知、すなわち自ら知らざることを知れりと信ずることではないのか。

プラトン『ソクラテスの弁明』久保勉訳(岩波文庫『ソクラテスの弁明・クリトン』1927, p.41-42.)

ソクラテスの「無知の知」は有名な言葉であるが、少し誤解されているところもある。「無知の知」とは、「自分が何も知らないということを知っている」というよりは「自分が知らないことを知っているとは思っていない」ことである。「不知の自覚」という言葉でそれを区別する人もいる。ソクラテスの実際の言葉を引いてみよう。

しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りもしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は、少くとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上で少しばかり優っているらしく思われる。

(上掲書, p.24-25)

そして、この不知の自覚のソクラテスの態度は、「死」に対しても向けられている。冒頭の引用がそれである。「愛知者」すなわち知を愛する者としての責務は「不知の自覚」の態度を徹底することである。愛知者としてのソクラテスは、死を怖れることは愛知者としての責務に背くと考えている。なぜなら、死を怖れることは自ら賢ならずして賢人を気取ることになるからである。つまり、死というものに対して何も知らないのに知っていることを装うことになるからである。

死を怖れるとはどういうことであるか。ソクラテスによれば、それは、死というのものが人間にとって悪の最大なるものと信じることである。しかし、人間は死については何も知らない、知り得ないというのが、愛知者にとっての真摯なる真実である。したがって、愛知者としては、死というのもは人間にとって福の最上なるものか、逆に悪の最大なるものかは知らないということこそ、真摯なる態度である。それなのに、死を前にして、自ら信じることや自らが最も確信していることをねじ曲げることは、ソクラテスには全く考えられないことであった。死というものは、ソクラテスの態度を全く脅かさないどころか、死を前にして、死よりも自ら信じるところを主張し、愛知者としての態度を示すことが最も重要であったわけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?