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「感情」をどう捉えるか −現象学的人間論からの考察−

パトリシア・ベナー著「現象学的人間論と看護」(医学書院)[1]という本の読書会に参加した。

看護学の本とはいえ、「現象学(phenomenology)」という哲学の考え方が基礎になっている。主にハイデガーの現象学的人間観を看護に応用したものであり、看護実践の具体例と現象学による理論的考察がバランス良く書かれている名著である。

現象学とは

現象学とはフッサールが始めた哲学で、ものすごく簡単に説明すると、世界の存在はすべて、我々の意識に立ち現れる「現象」であり、現象の見え方は我々の「メガネ」(科学的世界観など)によって歪められている。なので、その「メガネ」をはずして、本来はどう見えているか直観的に捉えていこうとする学問である。この「メガネ」を外すことを「現象学的還元」という。

フッサールの弟子であり、20世紀最大の哲学者とも言われるのがハイデガーである。ハイデガーは、人間存在を「現存在」と呼び、我々人間が世界の中に存在するあり方を考察することが、存在の理解にとって最も重要だと考えた。ここでハイデガーが「人間」という用語を使わず「現存在」という独自の用語を用いている理由は、「人間」と呼んだ時点ですでにある種の「メガネ」に絡め取られて解釈されてしまうからである。つまり、ハイデガーは「現象学的還元」を行い、人間という存在の本質を捉えるために、主観や客観という二元論的捉え方をも超えて、その存在論的基盤を追求していったのである。

人間存在の本質としての「気づかい」

ハイデガーの「現存在」を特徴づける鍵概念の一つが「気づかい」である。え?なんかいきなり、日常用語ですやん?というつっこみが来そうなところであるが、「気づかい」をするところが人間(現存在)の本質の一つと考えた。これは「関心」と言い換えてもいいが、ハイデガーはハンマー(金づち)の例を挙げている。ハンマーは、もし釘を打ちたいという関心(気づかい)がある場合「ハンマー」という存在として我々に立ち現れるが、もしその関心がなければ、ただの棒きれとして立ち現れる。これは「他者への気づかい」にも敷衍されることであり、私たちが他者と存在論的に関わりをもつときに、「気づかい」があるからこそ可能になるというのである(しかし、「ものへの気づかい」に比べて「他者への気づかい」についてはハイデガーは詳しく論じていないという批判もある[2])。

ベナーは、ハイデガーの「気づかい」概念が、看護における「ケア」の概念の基礎になると考えた。つまり、私たち人間の基本的な存在の仕方として、他者を「気づかう」ということがあるという(ここでも、ベナーの「気づかい」概念はハイデガーのそれとズレているという批判があるが[3]、ここでは大まかな理解でよいだろう)。

これは単に日常的な意味での「人間って、やっぱり他人の気持ちを気遣ってあげる利他的な存在だよね〜」という意味とはちょっと違う。私たち人間が自己の存在に固有の意味を持ちながら生きる(こういうあり方を「実存」と呼ぶ)ことの条件として、物ごとや他者への「気づかい」があるということである。非常に簡単に言うと、人間は「気づかい」という能力を持っているからこそ、あらゆる物ごとに「意味」を付与することができ、だからこそ(私にとっての)世界は存在するということである。

もし私たちが「気づかい」という能力を持たなかったとしよう。そのとき、私にとって世界はどう立ち現れるだろうか。おそらく意味を持たない情報の波のようなものが周りに漂っている混沌の状態か、あるいは「無」であろう。

「感情」の意義:ベナーの著書から

ベナーの著書「現象学的人間論と看護」に戻ろう。読書会では第三章「ストレスと対処に関する現象学的な観方」の最後のあたりを読んだのであるが、そこでは「感情」をどう捉えるか、ということがテーマであった。

現象学的に見れば、感情には質的な内容がある。それは〈身体に根ざした知性〉の発する言葉であり、人間を自分の生きている状況に結びつける。
 ー「現象学的人間論と看護」第三章, p.111

つまり、怒り、喜び、戸惑い、悲しみ、苛立ちなどの感情を「対処すべき撹乱物」と捉えることは大きな間違いだというのである。むしろ、感情というのは、人間の中の「身体化された知性」が発する重要なメッセージであり、人間存在にとって大きな意味があるというのである。

現象学的に見れば、人間は己れにとって諸々の意義を持つ世界に波長を合わせ、関心を持ってそれに関与する存在である。(中略)感情には我々の注意と思考を特定の方向に導く働きがある。感情のそうした働きに従うことで得られる知識と知恵に対する尊重こそ、現象学的人間観からの帰結である。
 ー「現象学的人間論と看護」第三章, p.111

「気づかい」概念から考えていくと、私という存在が、世界に関わっていくとき、そこに他者への「気づかい」が発生する。このとき他者との関係性や状況によって「感情」が発生する。だからこそ、「感情」という現象が私に立ち現れたとき、その「感情」が持っている意味を解釈していくことが、私と世界(他者)との関わり方やその背景的状況を紐解いていく手がかりになるのである。そういう意味では、「感情」を厄介なもの・抑えつけるべきものととらえるのではなく、感情の(存在論的/現象学的な)意味をきちんと捉えていくことで私たちは、自己の存在(生きることの意味)についての洞察を得ることができるだろう。

思い切って言うならば、「感情」には、私たちの存在のあり方の謎を紐解く大きな「知恵」が宿っている

そういう意味では「アンガー・マネジメント」という言葉には、そもそも「怒りは対処し、無くすべきもの(つまり厄介者)」という前提が含まれていないか。「怒り」という感情は、たしかに厄介である。怒りのままに行動してしまえば、人生を誤ることもある。しかしながら、現象学的人間論で捉えれば、「怒り」は単に無くすべきゴミのようなものではなく、「怒り」という感情にも大きな意味と知恵が潜んでいるのであり、それを「解釈」していくことが重要であるということになる。

他者の感情をどうやって知る?

人間の存在論的な「気づかい」は、世界に意味を与える。「感情」も、自分の身体性に根ざした現象であり、その固有の意味を紐解いていくことで、私たちは自己の存在をより深く理解できるのだろう。

しかし、「他者の感情を知る(察する)」ということは可能なのであろうか。これは大変な難問である。自己の感情を正しく知り、その意味を解釈するのも大変な作業である。ましてや他者の感情を正しく知るというのは、途方もなく難しいことなのではないだろうか。

読書会でこの話題になったとき、ファシリテーターの榊原哲也先生が大きなヒントをくれた。

「『他者の感情をどうやって知るのか』というのは認識論的な問いであって、現象学では違う問いの立て方をします。『それ(他者の感情)はどのようにあるのか(存在するのか)』、このような問いは存在論的な問いです。

これを聞いたときに、私は「あっ!」と思った。問いの立て方を変えるというのは、論点のすり替えのように思えることがあるが、ここでは全く異なる大きな意味をもっている。

つまり「それをどうやって知るのか?」という考え方自体が、主観/客観という二元論的な捉え方をしているのであって、そのような二元論的観方(認識論)自体を現象学は否定しているのであった。現象学では、私という主観が、対象物としての客観を認識しているという主観=客観枠組みをとらない(そのような捉え方そのものが、科学的世界観としてフッサールが脱却しようとしたものである)。世界は我々に「立ち現れてくる」のであって、私という存在と、他者という存在は、私が気づかいをもって他者に関わるときに共同的に存在する。これがハイデガーの論点であった。

ここから考えると、他者の感情をどう「認識」するか?という認識論的な問いは、そもそも現象学的でないということになる。目の前の他者にとって、その感情はどう立ち現れているのか?という存在論的なアプローチがここでは重要となる。

そして、そこでは「共通性」が問題となる。つまり、私に対して私の固有の状況で立ち現れる感情と、他者に対してその固有の状況で立ち現れる(であろう)感情には「共通性」を措定することができるか、という問題である。これに関して、ベナーはこのように述べている。

共通性の何らかの基盤があるはずだと言える根拠は、人間が共通の世界に住み、共通の意味に参与しているというところにこそあるからである。したがって、文化的背景を共有し同じ状況の内に身を置く人間を研究する場合には、その人間たちの間に共通のテーマ、共通の意味、さらには共通の関心さえあるはずだと見込んでよいわけである。
 ー「現象学的人間論と看護」第三章, p.112-113

この共通性の議論に関しては、やや楽観的な推定のもとに議論が進んでいるようにも思えるが、ハイデガーの「共同存在」の概念をベースにしているようである。しかしながら、ハイデガーの議論によって「現存在」同士が世界の中で共同的に存在できることの基盤があるとはいえ、「文化的背景を共有し同じ状況の内に身を置く人間」であっても、異なる感情が立ち上がることは大いに想像され、この「共通性」の議論はまだまだ尽くされていないと感じる。

現象学の面白さ

現象学はつくづく面白いと思う。「感情には(人間にとって固有の)意味がある」「共通の世界に住んでいる私たち人間存在同士は、共通の基盤をもっている」など、言葉にしてみると「当たり前じゃないか」と思えることが、実はその問いの立て方や世界観が、私たちが普通に使っている道具(主客関係を前提とした認識論)とまったく異なるものであることを思い知らされるからである。

医療者が「ケア」という行為を行うとき、こういう世界観や人間観をもって実践するならば、日々の行為がきわめて充実したものになるのではないだろうか。少なくとも、人間存在というとてつもなく謎の多い、意義深い存在に対する敬意が生まれるはずである。


参考文献

[1] Benner, P., Wrubel, J. (1999). 現象学的人間論と看護. 難波卓志訳, 東京: 医学書院.

[2] 田邉正俊. (2012). ハイデガーにおける気づかい (Sorge) をめぐる一考察. 立命館文學, (625), 1125-1136.

[3] 榊原哲也. (2020). ベナーはハイデガーから何をどう学んだのか. 立命館文學= The journal of cultural sciences, (665), 964-977.




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