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西田幾多郎の他者論——論文『私と汝』より

それでは、そのような私と汝とは日常生活のなかでどのように関わり合うのだろうか。西田は次のように書いている。

私は私の人格的行為の反響によって汝を、汝は汝の人格的行為の反響によって私を知るのである。我々が各自の底に絶対の他を認め互に各自の内から他に移り行くということが、真に自覚的なる人格的行為と考えられるものであり、かかる行為に於て私と汝とが相触れるのである、即ち行為と行為との応答によって私と汝とが相知るのである……(論文『私と汝』より)

(中略)西田によれば、私たちはそれぞれの底に「絶対の他」を認め、それを通して「私と汝とが相触れる」という。私とあなたとは「絶対の他」として隔てられているけれど、それを通して私とあなたは互いを知る。……言葉を通して応答し合い、それが相手にとって反響となる。そのような関係を通して、私はあなたを、あなたは私を、知ることになるのだ。

櫻井歓『今を生きる思想 西田幾多郎:分断された世界を乗り越える』講談社現代新書, 2023. Kindle版

西田幾多郎の他者論である。

西田の思想は近代日本における「個の自覚の思想」と言える。「純粋経験」という鍵概念をもとに、自己と世界の関係性を哲学的に考察したと言える。その意味では、自己意識の「純粋経験」を問う思想であり、自己と世界の関係性は説かれるものの、いわゆる「他者論」について西田が語っているイメージは少ないかもしれない。しかしながら、『善の研究』において「善とは何か」という「倫理」の主題も西田にとって大きな問いだったのであり、そこでは「他者」とどう関わるかという問いも視野に入っていたわけである。

西田は1932年に『私と汝』という論文を発表した。これは西田の他者論の哲学であり、西田の中期から後期の思想に関わる問題を含んでいる。西田の中期思想の核となる概念は「場所」であり、後期思想のそれは「歴史的世界」である、と櫻井歓氏(冒頭引用の書籍著者)は述べる。

「場所」の思想は、西田いわく「あらゆる物事は何らかの場所に於てある」という考え方である。これは、空間的な場所というよりは、論理的な場所や意識の場所という意味合いを持っている。私たちの意識(存在)は、「絶対無の場所」と呼ばれる、意識されたものを映し出す場所があって、そこに映し出された限定的なものと西田は考えた。私が今意識していることはあくまでも限定的であり、他者もまた、私がうかがい知れない「意識の野」をもっている、と考えるわけである。

西田は後期思想において、この「場所」の考えを基本としながら世界の諸事象(学問、文化、芸術、宗教)を説明していった。その中で、「歴史的世界」という言葉は、私とあなた(汝)が共にいる場所を指す。西田によれば「私と汝とは同じく歴史に於てあり、歴史によって限定せられたもの」として考えられ、私と汝は共に「歴史的世界に於てある」という。西田のいう歴史は時間の概念と関わっていた。彼は時間を「永遠の今の自己限定」として捉えている。

そして、西田の他者論である『私と汝』において、この「場所」と「歴史的世界」の概念を含む形で、自己と他者がどう関わり合うのかが述べられている。西田によれば、私とあなたは「人格的行為の反響」によって、お互いを知る。そして、自己の中に「絶対の他」を認め、自己の内から他者に移り行くことで、私とあなたが触れ合うという。これを「行為と行為との応答」とも呼んでいる。ここでは前期の思想である「純粋経験」による「主客合一」(主観と客観が分けられないさま)のような意識のあり方が、自己と他者にも敷衍されていると考えることもできる。元々、自己と他者は分け隔てられているものでもない。それは意識の底にある「絶対無の場所」においては、私も他者も入り混じって映し出されているのであり、だからこそ自己の内にも「絶対の他」を認めることができるのである。

他者論の哲学で言えば、宗教哲学者のマルティン・ブーバー(1878 - 1965)が『我と汝』という本を1923年に書いている(西田の論文『私と汝』とほぼ同じタイトルである)。この中で、ブーバーは自己と他者の関係には、「我―汝」関係と、「我―それ」関係があり、「我―汝」関係においては他者を対象として認識するような主体―客体関係ではなく、相手が直接私の全存在に語りかけ、私も自分の全存在をもって応答するような関係性があると説いた。このブーバーの「我―汝」関係は、「判断」などによって主体―客体関係ができてしまう前の「純粋経験」による自己と他者との交流と考えれば、西田哲学に非常に近しいところにあると考えることもできるだろう。



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