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シン・エヴァとレヴィナス〜碇シンジの〈充足なき欲望〉〜

すごいものを観てしまった。シン・エヴァンゲリオン劇場版のことである。

庵野秀明がこの世界に現出させたエヴァンゲリオン・シリーズという壮大な建築物群は、我々人類の金字塔の一つであり、哲学的・形而上学的な到達点と言える。

エヴァンゲリオンに関しては、様々なテーマが包含されており、そのどれから語っても話が尽きることはないが、今回は〈充足なき欲望〉というテーマを扱いたい。

マグリットの「恋人たち」

ところで、画家のルネ・マグリットに「恋人たち」という作品シリーズがある。

二人の恋人がキスをしているのであるが、二人の顔は布で覆われているのである。二人の表情は見えず、その絵からは不気味さや、見ているものを何となく不安にさせるものがある。

私はこの作品を、ブリュッセルのマグリット美術館で初めて見たように思う。そのとき、私はマグリットについて全く知識がなく、偶然入った美術館で見たのであった。

この作品は何を表現しているのであろうか?なぜ二人は布をかぶっているのか。二人は幸せなのか、不幸なのか。何となくこの絵から感じられる超越的なもの(死、希望の拒絶、虚無など)は何なのか。

この絵をどう解釈してよいのか、全く分からずに数年が過ぎた。

充足なき欲望としての「性愛」

そして最近、哲学者エマニュエル・レヴィナスに関する本を読んでいて、このような一節に出会ったとき、マグリットの絵の記憶がまざまざと思い出されたのである。

一方でエロス的な経験は、なにごとかの所有として、たとえば他者の肉体の所有として考えられる。そうであるとすれば、愛撫とは「挫折」である。レヴィナスの視点からすれば、愛撫は結局なにものも把持することがないからである。性愛の経験はまた、「融合」としてイメージされる。愛撫とはこの意味でも、一箇の逆説である。身体のこれ以上ないほどの接近にあってなお、他者との隔たりは増大してゆく。消え去ることがない隔たりこそが、むしろ愛撫の情熱を育みつづける (熊野純彦. レヴィナス入門 (Kindle の位置No.1394-1399). Kindle 版.)

レヴィナスによれば、人間には、決して充足されることのない欲望がある。それは、一つには愛であり、その行為としての性愛(接吻や愛撫)である。逆に、充足される欲望の例としては、飢えがある。人は食べ物を口から食べることで飢えが満たされる。しかし、愛という欲望は決して、飢えのように満たされることはない。それは〈充足なき欲望〉であり、満たされないからこそ、我々はそれを求め続ける。それは、我々が生きている限り求め続ける形而上学的な・超越的なものに対する欲望とも言える。我々の愛撫の行為が「口」によってなされることが多いのも、それは食べるという飢えを満たす行為を真似ているからだ、とレヴィナスは言う。しかし、超越的なものに対する欲望は、決して自己に取り込むことはできないため充足されることはない。

性愛において、他者の身体はこれ以上ないほどに接近するのだが、近くなればなるほど、他者との隔たりは増大していく。同じように、自己を補完するものとして〈他者〉という存在を求めれば求めるほど、それは自己に同化できないものとして、自己から逃れ続けるのである。

このようなレヴィナスによる〈他者〉論の本質は、すなわち、自己を補完するものとして自己が他者に求める〈充足なき欲望〉は、マグリットの「恋人たち」の本質を表現しているように思われるのである。

碇シンジはなぜ綾波レイを求め続けるのか

そして、同様に、この自己を補完するものとして他者を求め続ける〈充足なき欲望〉というテーマは、すなわち、碇シンジが、綾波レイに、カヲル君に、そして、ある意味碇ゲンドウに対して求め続けたものではなかったか。

自分には何かが欠けているのではないかという思い。何かを補完すれば自己が完成するのではないか。しかし、それが〈充足なき欲望〉であることは、TVシリーズ、旧劇場版から今回の新劇場版に至るまで繰り返されてきたテーマであったはずだ。

今回の「シン・エヴァンゲリオン新劇場版」では、壮大なスケールで描かれた大いなる物語は一つの結末を迎える。

その結末のあり方とは別の仕方で、この碇シンジ=庵野秀明の〈充足なき欲望〉には、一つの希望のような光があるのではないかと私は思う。それは、この欲望は、充足しないことこそがその本質ではないかということだ。

レヴィナスは、他者との関係性(=倫理)の本質は、この絶対に自己に同化することのできない他者の他者性にあると述べた。充足する欲望は、自己の〈全体性〉に閉じている。それは他者との関係性で言えば、他者の本質をいわば見逃し続ける、暴力的な欲望である。一方、〈充足なき欲望〉が求めるのは、絶対的な他性であり、決して自己に回収されることのない、無限へとつながるものとしての本質的な他者だからである。碇シンジが求め続けた他者とは、人間にとって、より本質的な、決して自己に同化することのない、〈無限〉へと続く他者であったに違いない。

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