共時性において成立する一つの構造体として『コーラン』を読むこと——井筒俊彦『『コーラン』を読む』より
井筒俊彦(いづつ としひこ、1914 - 1993)は、イスラーム学者、東洋思想研究者。言語哲学者。慶應義塾大学名誉教授。日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシャ哲学、ギリシャ神秘主義と言語哲学の研究に取り組んだ。後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、東西の哲学・宗教を横断した独自の「井筒哲学」を構築した。著書に『神秘哲学』『ロシア的人間』『イスラーム哲学の原像』『意識と本質』『意味の深みへ』『井筒俊彦著作集』(全12巻)などがある。
本書『『コーラン』を読む』は1983年刊で、1982年1月から3月にかけて、岩波市民セミナーとして10回にわたって行われた講演をもとに書籍化したものである。本書の解説において若松英輔氏は、「この講義録を通じて井筒は、言葉と「コトバ」を使い分けている」と述べている。井筒の主著『意識と本質』において、「コトバ」とは、「神のコトバ——より正確には、神であるコトバ」と書かれている。「コトバ」こそ、井筒にとって、もっとも重要な哲学的術語であった、と若松氏は述べる。「コトバ」と井筒が書くとき、そこには、おのずから狭義の言語的領域を超え出ようとする働きが含まれている。言葉は、いわゆる通常の意味における言語だが、「コトバ」は様相が違う。「コトバ」は対峙する者に応じて姿を変じ、また、意味的には幾重にも折り重なる多層的構造をもつ。ある日、ムハンマドはヴィジョンを見る。視覚的には光をたずさえた大天使だが、もたらされたのはあくまで「神のコトバ」であると井筒は言う。
セミナーの第一回の冒頭で、井筒がまず語り始めたのは、やはり「読む」ことの意味であった。話された言葉は、文字によって定着されることによって、未知なる人々に開かれてゆく。また、文字は「読まれる」ことによって、あたかもひとつの種子となり、新しい意味次元を私たちの内的世界に開示する。「読む」ことは書くことに勝るとも劣らない創造的な営みとなる。井筒がここで「読む」ことを試みているのは、時間的テクスト(あるいは外的テクスト)としての『コーラン』ではなく、時空の差異を超えたところに存在する、いわば「共時性」のもとにある永遠の『コーラン』である。共時性のもとにある空間的な構造体としての『コーラン』テクストを読むとは、読む者の精神の内奥に拡がるコトバ、いわば内面的テクストである、と若松氏は言う。
『コーラン』はコトバが結集したものであり、書物全体として多重的構造を有している。井筒は『コーラン』に三つの層を措定する。
一つ目は「レアリスティック(realistic)」、次が「イマジナル(imaginal)」、そして最後が「ナラティヴ(narrative)」あるいは「レジェンダリー(legendary)」の三つである。「レアリスティック」とは、現実的と訳すよりも「事実的」とした方が井筒の意味に近い。そこには歴史的事実が述べられており、象徴的な解釈は求められていない。「ナラティヴ」とは「物語的」と訳されることが多いが「語り」という意味も込められている。彼は、コトバがあえて「語り」を伴って出現しているところに意味を見出そうとしている。そして「イマジナル」とは、イスラーム神秘哲学研究者アンリ・コルバンによる造語からとっている。この用語は私たちには馴染がないものであろう。
私たちが通常接しているのは「イマジナリ(imaginary)」の層であり、事象が想像上あるいは非実在的であることを意味している。それに対して、井筒が用いる「イマジナル」はむしろ、「イマジナリ」と対極の実在を意味する。私たちの通常の意識が経験している世界の奥に、もう一つの世界がある。そこにこそ真の実在があり、それを認識するには表層意識の壁を越えていかなくてはならない。すなわち一たび、深層意識の次元に降りてみなくては「読む」ことができない層が『コーラン』にはある、と井筒はいうのである。