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メラネシア人の「生きられた神話」——レーナルト『ド・カモ—メラネシア世界の人格と神話』を読む

神話は、知的に理解され定型化して表現される以前に、感じ取られ、生きられる。それは固定化された物語である以前に言葉であり、象徴であり、行動であって、子供のように情動的な人間の心に、出来事の輪郭をかたどるのである。こうした様相からみると、「トーテム的体系」とか「集合表象の総体であるトーテミスム」とかいう表現は不完全で時代遅れのものに思われる。それらの表現は、実のところ暗黙のうちにトーテム的総体の神話的特性をとらえているが、その神話的特性のみが、ある現実の把握の様式を明らかにしてくれる。あるいはもっと簡単にいえば、この神話的特性は自らのうちに現実をとらえることを可能にする神話を含んでいるのであって、メラネシア人は、その神話をかくも強く感得しているとはいえ、明確に表現することはできない。それを性の神話とか心的生の神話とかよんでいるのはわれわれなのである。

モーリス・レーナルト『ド・カモ——メラネシア世界の人格と神話』せりか書房, 1990. p.330.

モーリス・レーナルト(Maurice Leenhardt, 1878-1954)はフランスの民族学者でありプロテスタント牧師1902年から約25年間をメラネシアのニューカレドニア島で宣教師としてすごす。その間、植民地支配にあえぐ現地人の側に立ってその自立のために奮闘しながら、伝統文化の尊重に基礎をおいた布教の可能性を模索する。1926年に帰国してからは、レヴィ=ブリュル、マルセル・モースらとの親交をとおして専門的な民族誌学者となり、フランスのオセアニア民俗学の開拓者となった。

本書『ド・カモ——メラネシア世界の人格と神話』は1947年に出版されたレーナルトの代表作である。レーナルトの民俗学のなかでも特に本書は、メラネシア文化の内在的理解として類例のない卓越した価値をもっていると高く評価されている。彼がニューカレドニアに見たものは、植民地政策のために疲弊していくカナク社会だけではなく、風景と一体になった伝統文化の固有の美学でもあった。彼にとってカナク人はただ滅び去ろうとする民族ではなく、独自の文化をもつ「誇り高い」人々でもあったのである。

本書における「生きられた神話」という考え方は、現代の人類学とも少なからず重なる部分がある。レーナルトにとって「神話」とは、そこにおいて世界と自己が同時にある特定の「形(フォルム)」に分節化してくる言語の一歩手前のモメントであり、そこからテマティックな論理的言語の可能性が生まれてくる原-言語である。

「神話はいまでも彼らの日常生活のすぐそばにある。たとえ彼らがそれを語らないにしてもそれは生きられており、彼らの話すことに霊感を吹き込んでいる」とレーナルトは語る。カナク人にとっての神話的な言語活動は、他の言語で語られる神話に見られるような簡潔で凝縮された、格言をちりばめたものの言い方ではない。それはむしろイメージとてでもいうべきもので、整理された智慧というよりも、実際にしたある経験である。例えば、亀の血に思いをいたし、いちじくの枯れ葉が足に踏まれてかさかさ音を立てるのに震えおののくといったような経験である。カナク人の神話では、亀という動物は、他の亀が血を流した場所に駆けつけてくる習性があると言われている。そこで人間に捕まえられて、自分も命を落としてしまう。だから亀は破滅に突っ走る者のイメージになる。

レーナルトは、メラネシア人にとって神話とは「生きられた」リアリティーであるという。彼は同じ民俗学者のマリノフスキーが、神話の古典的定義に反発し、それが死んだ神話に関するものだと主張したことに強く同意する。神話とは、知的に理解され定型化して表現される以前に、感じ取られ、生きられるものであるという。それは言葉になる前の言葉、原-言語なのであり、情動的な人間の心に、生きられた経験としてかたどられる。メラネシア人にとって、神話とは象徴なのではなく、むしろ現実の把握のしかたを明らかにしてくれるもの、自らのうちに現実をとらえることを可能にするものである、とレーナルトは考えたのであった。

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