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エウダイモニアの幸福論はエリート主義的か?

ヘドニズムの幸福論では、ある人がどんな人格をしていても、どんな生き方をしていても、快楽を得ることができていれば、その人は幸福であるとされる。自分の強みや物事の優先順位についてくどくどと考えたり、人生における目標をどのように定めるか悩む必要もない。
ユーダイモニアに比べると、ヘドニズムの幸福論は自由で開放的だ。「他人に配慮したり、望ましい仕事に就いたりする必要なんてなくて、酒とセックスさえあれば幸福になれる」といってしまうこともできる。おそらく、パンクミュージシャンやラッパーの大半は、本人は自覚していなくともヘドニストであるだろう。

ベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳:学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』晶文社, 2021. p.314.

アリストテレスの幸福論は「エウダイモニア(ユーダイモニア)」と言われるものである。それは「善い生き方」をする徳のようなものであり、何かをするから幸福とか、何のために幸福になるとか、そういう他との関連を持つものではなく、「自足的」なもの、幸福であるとはそれ自体で成り立つものであるとされるところにポイントがある。

それとよく比較されるのが「ヘドニア」による幸福論だ。これは簡単に言うと「快楽」による幸福である。心地よい状態にさせるものはヘドニアであり、家があり休息できること、自分がリラックスして快適な状態にいること、ストレスがないことなどの幸福感は、ヘドニアである。

この『21世紀の道徳』の著者ベンジャミン・クリッツァーは、エウダイモニアの幸福論のほうが、ヘドニアの幸福論よりも「本質的」とされてきたが、それは本当か?という疑問を投げかけている。その理由は、エウダイモニアの幸福を人々が手に入れるためには、そのような「徳」を持つ必要があり、エリート主義的だというのだ。それに比較して、ヘドニアによる幸福は、民主主義的であり、誰もが手に入れられる自由で開放的であるという点で、それはそれでとても良いものではないか、と論じている。

うーん、おもしろい。実におもしろい。

このエウダイモニアのエリート主義的な側面と、ヘドニアの民主主義的側面というのは、仏教でいうと上座部仏教と大乗仏教の違いのようなものではないだろうか。善い生き方を実践し仏の真理に到達するために、修行を積み重ねてそこに至ろうとする前者と、南無阿弥陀仏と念仏を唱えさえすれば皆往生できるとする後者の違いである。どちらの考え方も間違ってはいないのである。

ちなみに、著者のクリッツァーさん。京都府生まれの30代の方。名前は外国の方のようだけれど、おそらく日本語ネイティブの方で、本書も日本語で書かれたものである。大学院(修士)卒業後、ブログ「道徳的動物日記」を開始し、批評家として、倫理学・心理学・社会運動など様々なトピックについての記事をWebメディアなどで発信されている。


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