見出し画像

マルクスが指摘した労働者の「二重の自由」とは

だが、この「自由」は、近代が最高の価値として措定してきた「自由」の陰画的な内実なのだ。マルクスはこのことを「二重の意味で自由」な労働者という皮肉に満ちた言い方で指摘している。「二重の意味で自由」とは、第一には、身分制的束縛から解放された自由人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味での自由であり、第二には、生産手段から自由である、すなわちそれによって生計を立てることのできる生産手段を持たないという意味で自由である、ということだ。近代思想は、前者の自由を人類の大きな進歩として称賛してきた。しかし、第二の自由は、自らの労働力を売るほかに選択肢がないことを即座に意味するのだから、本来的な意味での自由の名に値しない。  
かつ、第一の自由と第二の自由はつながっている。巨万の富を有する資本家とその日暮らしの労働者との間に、身分のうえで差はない。ゆえに、両者の間で雇用契約が結ばれるとすれば、それは自由意志のみに基づくということになるが、そのような「自由な人間」の出現は、その人間が土地から暴力的に引きはがされ、身一つになったことの結果なのである。

白井聡. 今を生きる思想 マルクス 生を呑み込む資本主義 (講談社現代新書) (pp.46-47). 講談社. Kindle 版.

誰もが知っているカール・マルクスである。資本主義社会の限界や、新しい資本主義といったことが唱えられるようになった今日、また新たなマルクスが求められているかのような感もある。1989〜91年にソ連や社会主義東欧諸国が次々に崩壊した。共産主義という大きな社会実験が終わり、マルクス主義は一旦「オワコン」化したかに見えたが、決してそうではなかった。マルクスの書を読むと、まるで現在の資本主義社会の最終的な状態を予言しているかのようなことが多く書かれているのである。マルクスはまだ終わっていない。

カール・マルクス(Karl Marx、1818 - 1883)は、プロイセン王国時代のドイツの哲学者、経済学者、革命家である。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱、1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。主著『資本論』は、大英図書館に通いつめながら執筆されたという。フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義・共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた。

マルクスの思想から学ぶことは多くある。「マルクス主義哲学」としても、多くの哲学者・思想家が彼の思想や概念を発展させている。例えば、マルクスの「疎外(alienation)」の概念は有名である。「疎外」とは、あるものから生じたものが元のものから離れてそれと対立することを指す。哲学者ヘーゲルに由来する概念である。マルクスはそれを、資本主義社会における労働者に応用した。労働者は資本主義社会においては「疎外」される運命にある。本来人間は労働によって自らの生活に必要なものをつくり出す、つまり労働は人間の生活を豊かにするはずのものであるのに、資本主義社会では労働力が商品化され、労働過程とその生産物が利潤追求の道具となるために、働く者は自らの労働の主人でなくなってしまうのである。

マルクスは資本主義社会の本質の一つを、労働者が自らの労働力を商品化できるようになったというところに見ていた。つまり、封建社会時代のような、土地や生産手段と結び付けられた「動けない」労働ではなく、自分の身一つを労働力として売り、工場など好きなところに出かけて、労働の対価として賃金をもらうことができる状態である。しかしながら、このことによって資本主義社会は労働力という商品を食い尽くしていくような際限のない状態に突き進む。これによって労働者は劣悪な状態に置かれていくのである。

また、土地と生産手段に結び付けられた動けない労働者よりも、現代の動ける労働者のほうが「自由」で良いような気がしてしまう。これも、マルクスに言わせれば資本主義社会の欺瞞の一つである。これは「二重の意味で自由」なのであるが、それは決して喜ぶような状態ではない。1つ目の「自由」は、身分制的束縛から解放された自由人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味での自由であり、2つ目のそれは、生産手段から自由である、すなわちそれによって生計を立てることのできる生産手段を持たないという意味での自由である。1つ目の自由も、自分の労働力を商品化できることの帰結を考えると手放しで喜ぶべき自由ではない。しかし、2つ目の自由は、本来の意味の自由でさえない。自らの労働力を売ることしか選択肢がない状態だからである。英語でいうと「liberty」の自由か、「freedom」の自由かに近い。前者の自由は、権利としての自由であるが、後者の自由は、「遊離している/動くことのできる」という意味での自由である。後者の自由は、つまり根無し草、社会の中に浮遊しているような労働者の状態とも言えるかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?