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ブルシット・ジョブを支える「経営管理主義イデオロギー」——グレーバーの提唱したBSJ理論

……それで、これをどう考えるのか?ブルシットを生み出しているのは、資本主義それ自体ではありません。それは、複雑な組織のなかで実践されているマネジリアリズム[経営管理主義]・イデオロギーです。マネジリアリズムが根を下ろすにつれ、マネジリアリズムの皿回し——戦略、パフォーマンス目標、監査、説明、評価、新たな戦略、などなど、などなど——を維持するだけが仕事の大学スタッフの幹部たちが登場します。それらは、およそ大学の真価とよべるもの、すなわち教えたり学んだりからは、まったくかけ離れたところで起きている現象なのです(BSJ 85〜86)

この「マネジリアリズム・イデオロギー」という指摘は重要です。ネオリベラリズムのなかで強化され、拡大しているのが、このとにかくあらゆる過程に管理チェックの契機を導入していく経営管理主義イデオロギーです。

酒井隆史『ブルシット・ジョブの謎:クソどうでもいい仕事はなぜ増えるのか』講談社現代新書, 2021. p.43-44.

「ブルシット・ジョブ——クソどうでもいい仕事の理論(Bullshit Jobs:A Theory)」は、アメリカの人類学者デヴィッド・グレーバーによる2018年の著書で、無意味な仕事の存在と、その社会的有害性を分析している。彼は、社会的仕事の半分以上は無意味であり、仕事を自尊心と関連付ける労働倫理と一体となったときに心理的に破壊的になると主張している。「ブルシット(Bullshit)」は、原義は「牛糞」だが比喩的な意味ではなく、辞書での定義は「馬鹿馬鹿しい」「無意味な」「誇大で嘘な」の俗語でその意味で、一般的によく使われる言葉である。

本書はグレーバーの著書を翻訳した酒井隆史氏によるブルシット・ジョブ(BSJ)理論の解説書である。グレーバーによるBSJの定義は、「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている」というものである。イギリスでの世論調査(YouGovによる調査)では、回答者の37%が自分の仕事がBSJであると回答。またオランダでの世論調査でも40%の人が自分の仕事には確かな意味がないと回答した。つまり現代にはクソどうでもいい仕事が溢れていることになる。なぜこのような社会になったのかを人類学的・社会学的な調査を踏まえてグレーバーは入念に分析している。

グレーバーはBSJを5種類に分類している。それは「取り巻き(flunkies)」「脅し屋(goons)」「尻ぬぐい(duct tapers)」「書類穴埋め人(box tickers)」「タスクマスター(taskmasters)」である。「取り巻き」とは、誰かを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事。例えば、受付係、管理アシスタント、ドアアテンダントである。「脅し屋」は、雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素を持ち、そのことに意味が感じられない仕事。ロビイスト、顧問弁護士、テレマーケティング業者、広報スペシャリストなどを指す。「尻ぬぐい」は、組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事。たとえば、粗雑なコードを修復するプログラマー、バッグが到着しない乗客を落ち着かせる航空会社のデスクスタッフなどである。「書類穴埋め人」は、組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事。たとえば、調査管理者、社内の雑誌ジャーナリスト、企業コンプライアンス担当者など。「タスクマスター」は、他人に仕事を割り当てるためだけに存在しBSJを作り出す仕事。中間管理職や号令係、取り次ぎや仲介である。

冒頭の引用は、「タスクマスター」の一例として挙げられた大学のあるポストについている人の証言である。大学改革でつくられた新たなポストで、その人がする仕事は、学部長から送られてきた戦略的文書を作成するために血みどろを努力をするものである。しかし、それらの文書は大抵は二度と日の目を見ることのない、計画のための計画、書類のための書類といったものである。彼は非常に鋭い指摘をしている。BSJを生み出しているのは資本主義そのものではなく、「経営管理主義(マネジリアリズム)イデオロギー」だという。つまり、戦略、パフォーマンス目標、監査、説明、評価、新たな戦略など、全体の工程を経営管理するという至上命題のためだけに生み出される余計な仕事である。こうして、大学の本来の教育の仕事や本質的な仕事から彼の仕事はかけはなれていく。また、経営管理主義イデオロギーは、新自由主義のイデオロギーとも関係すると酒井氏は指摘している。生産効率をあげ、コストパフォーマンスを向上させ、最大の目標を達成するために作業工程を管理し、そのあらゆる部分をチェックし、改善していくことが最良の仕事のあり方であるというイデオロギーである。そのために私たちは互いに自由競争をする。競争は善である。そして、それは私たちに富と利益と幸せをもたらすというイデオロギーである。しかも、この新自由主義のイデオロギーは、大学改革においても官僚制的硬直化を招いている。改革がその成果を結ばないまま、改革そのものを目的としたかのように永遠と続いていく「慢性改革病」といわれる現象を起こしているからである。これは日本独特なのではなく、新自由主義にもとづく市場構造の拡張への国家への関与が、官僚制の肥大としてあらわれている世界で進行している過程のひとつの表現なのである。

ここでは、マルクスが批判した「疎外」が起きていることは明らかだ。私たちを幸せにするはずの仕事や労働が、逆に私たちの本来のあり方から離れさせ、私たちを不幸にしている。経営管理主義は本当に正しいのか。私たちが今やっている仕事はブルシットではないか。それを検証しながら、もし自分のやっている仕事がブルシットなものなら、もっと本質的なことだけに集中し、思い切って簡素化できるように働きかけていくことも重要だろう。


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