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究極的な卓越性に即しての魂の活動としての「最高善」——アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む

自足という点からもまた、同じことが帰結すると見られる。すなわち、究極的な「善」は自足的であると考えられる。もっとも、自足的といっても自分だけにとって充分であるという意味ではなく、つまり、ただ単独の生活者としての自分にとって充分であるという意味ではないのであって、親や子や妻や、ひろく親しきひとびととか、さらに国の全市民をも考慮にいれた上で充分であることを意味する。人間は本性上市民社会的(ポリティコン)なものにできているからである。(中略)
もし以上のごとくであるとするならば、〔人間の機能は或る性質の生、すなわち、魂の「ことわり」を具えた活動とか働きとかにほかならず、すぐれた人間の機能は、かかる活動とか働きとかをうるわしく行なうということに存するのであって、すべていかなることがらもかかる固有の卓越性(アレテー)に基づいて遂行されるときによく達成されるのである。もしかくのごとくであるとするならば、〕「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂の活動36であることとなる。

高田三郎. アリストテレス『ニコマコス倫理学 上』岩波書店. Kindle 版. p.40-43

古代ギリシアの哲学者アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第一巻からの引用。『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの倫理学に関する著作群を、息子のニコマコスらが編纂しまとめた書物である。アリストテレスの弟子エウデモスが編纂した『エウデモス倫理学』と中身の一部が同じとなっている。『エウデモス倫理学』に関する過去記事も参照のこと。

まず第一巻にて、人間の性質としての「善(アガトン)」の追求と、その従属関係、そしてその最上位に来る「最高善(ト・アリストン)」について言及される冒頭の「序論」に続き、自足的・充足的な「最高善(ト・アリストン)」と同義であるとみなすことができる「幸福(エウダイモニア)」についての概説が論じられ、それが「究極的な卓越性(徳、アレテー)に即しての魂の活動」であることを確認した上で、その末尾において、「卓越性(徳、アレテー)」に関して、「倫理的卓越性」と「知性的卓越性」の区別が提示される。

アリストテレスは、あらゆる人間活動は何らかの「善(アガトン)」を追求していると説く。「人間的善」「最高善(ト・アリストン)」を目的とする活動は政治(ヘー・ポリティケー)的活動である。というのは、国(ポリス)においていかなる学問が行われるべきか、各人はいかなる学問を学ぶべきかを規定するのは「政治」であるからだ、とアリストテレスはいう。したがって、「人間というものの善」こそが政治の究極目的でなくてはならない。ここでいう「政治」とは、私たちが現代の近代的な国家運営におけるもので想像する政治とは少し性質を異にするものである。政治とは、ポリス的市民だけが行うことができる高度な活動である。つまり、生命維持のための労働(動物的な生)から解き放たれ、純粋に人間的なもの、人間の善や真理のためになされる活動のことをいう。

「最高善」が「幸福(エウダイモニア)」であることは万人の容認せざるを得ないところがだが、「幸福」が何であるかについては異論がある。「善」や「幸福」は、快楽や名誉や富には存しない
「最高善」は究極的な意味における目的であり、自足的なものでなくてはならないとアリストテレスはいう。この「自足的」という意味は、他の目的のための何かではないということである。つまり、◯◯を達成するための善など、手段としての善は最高善であるとは考えられない。そして最高善に相当するのは「幸福(エウダイモニア)」だけであるとする。

そして「人間というものの善」とは、人間の卓越性(アレテー)に即しての、最も善き最も究極的な卓越性に即しての魂(プシュケー)の活動であるとアリストテレスはいう。「魂の活動」とは、動物的な活動(食物摂取や成育)や植物的な活動(感覚的な生)以外の、人間的な生の活動をさす。魂(プシュケー)の「ことわりを有する部分」とは、人間的な生のうち、知性や認識の働きが主体をしめる部分のことである。人間にとっての最高善とは、こうした人間の卓越性(アレテー)に即しての魂の活動であるとアリストテレスは説くのである。



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