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鶴見俊輔がとらえた「原爆の意味」——『言い残しておくこと』を読む

この原爆の問題というのは、戦後史という短い時間の問題だけではなく、思想史、人間の歴史、生物の歴史の根本的な問題にまで行き着くんですよ。生物のなかでも同じ種同士で互いに殺し合いをしているものはあるにはありますが、人間ほどのひどい殺し合いをする生物はいない。オオカミだって、互いに争っても片一方がしっぽを下げて負けを認めると、そこで終わりなんですから。
ところが人間の場合には、いちどきに十万人、二十万人という大量の数の人間を殺す武器を発明して、それを実際に使用した。犬畜生なんていっているけど、人間のほうが犬畜生以下だという倫理的な認識を欠いているんですね。まさに生物が始まって以来の特別なことを経験しているんだ。存在の歴史の中で画期的なことなんです。原爆の出現は、世界史全体、生物史全体を変えた。それが偶然、日本で起こった。人間の歴史、ひいては生物の歴史のなかで、日本人はほんとうに稀有な体験をしているんですよ。そういう認識が日本の知識人のなかにはほとんどない。

鶴見俊輔『言い残しておくこと』作品社, 2009. p.240-241.(太字強調は筆者による)

鶴見俊輔(1922 - 2015)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する一人である。

彼は戦後、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)や原水爆禁止運動などへの協力を通して、常に市民の側から日本社会を見つめてきた。その鶴見が、原爆について語った文章が、本書『言い残しておくこと』に収められている。彼はアメリカでプラグマティズム哲学を学んできた知識人の一人でありながら、知識人がおかした間違いについて鋭く指摘する。

鶴見は原爆の発明と投下という事象が、日本人の特に知識人の間で真っ当に受け止められていないと語る。この原水爆の発明、そして実際の原爆投下という出来事は、人類史のみならず生物の歴史にとって決定的なことだったと語る。原爆の出現は、世界史全体、生物自然体を変えた。人間がそれまで積み上げてきた人間存在の尊厳や理性といったものががらがらと崩れ落ち、人間は「犬畜生以下」にまで堕してしまった。そのような人間倫理としても決定的なことが起こっていた。そういう事態だと鶴見は語る。

しかし、原爆の投下は、落としたアメリカ側のみならず、落とされた日本側にも「隠したい」という部分が出てきてしまう。戦後の冷戦構造の中で、真の政治的意味が覆い隠されていった部分もある。しかし、日本人の「恥」の文化、恥ずかしいものは隠したいという意識が、原爆を落とされたことの本当の意味を隠してしまうことになっていないか。鶴見は、その「隠したい」部分が共通しているところで、これからアメリカと日本が協力してしっかりと原爆に向き合い、前向きな未来を作っていくことにも希望を持っている。

戦後の知識人が、原爆の意味をちゃんと受け止められなかったこと、再発防止に向けて取組みができなかった理由として、鶴見は「それは知識人が、まず原爆に対して政治的なイデオロギーで括ってしまったから」だと語る。つまり、戦後の政治的なイデオロギー闘争の材料にされてしまった部分がある(鶴見は日本共産党が原水爆に反対しながらソ連の核実験を支持した事実を例として挙げている)。知識人が、この原爆投下という世界史上・生物史上稀有な事態に対してしっかりと向き合えなかったことは、明治から積み上げてきた日本の知識階級の教養というものが、いかに「付け焼き刃」だったかを表していると鶴見は痛烈に批判する。鶴見は、本来は知識人こそ、このような稀有な事態に対して「それは一体何だったのか」と現象の本質を捉え、思想を語り、再発防止に取り組むべきであると考えていたのだろう。

戦後78年が過ぎ、今年、日本でも映画『オッペンハイマー』が公開される。原爆投下をアメリカ側から描いた商業映画はこれまでほとんど存在しなかった。それは冷戦期においては「日本への原爆投下は正しかった」というイデオロギーから逃れられなかったからだろう。今やっとアメリカもその呪縛から脱しつつあり、「果たして原爆投下は正しかったのか」「原爆の発明と投下は人類史にとってどのような意味をもつのか」を考えられるステージに立ったのかもしれない。この問題は決して古くなることはありえず、人間存在の哲学や倫理、人類史・生物史にとって決定的な出来事として、この事態を深く考え続けることが私たちにも求められているだろう。

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