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聖性と戯画との境界上にある〈顔〉——辺見庸『月』とレヴィナス

そのようにかたったおとこは、たしか老いてから女形みたいな顔をしていた。その妻はやけに太い眉と大きな顔をしていた。カウナス出身のユダヤ人である、女形みたいな顔の哲学者は、しばしば〈顔〉についてかんがえ、かたった。
たとえばこんなことを書いている。「顔は、もののひとつでありながら、かたちをつらぬくが、それでも顔はかたちによって境界づけられている」。あたしはよくわからない。あたしにわかるのは、この哲学者のことばには、ふしぎな引力があるということだ。かれはつづった。「顔のかたちが有する輪郭は、その表出において不断に開示されているのだけれども、その不断の開示が、かたちを炸裂させる開示性そのものを戯画へと封じこめてしまう」。ここもよくわからない。「かたちを炸裂させる開示性」ってなんだろうか。けれども気になる。すごく気になる。「かたちを炸裂させる」ってなんかいい。ひっぱられる。すぐつづいて「聖性と戯画との境界上にある顔は、それゆえ、なおある意味では権能にゆだねられている」とくる。ギクリとするのは、顔というのが「聖性と戯画との境界上にある」というところだ。あたしは目がみえない。あたしはあたしをみたことがない。あたしはあたしのかたちがよくわからない。顔がわからない。両手両足がうごかない。しゃべることができない。じぶんには雑草にからみつく痰や捨てられたビニール紐ほども価値がない。とおもう。その価値のなさをめぐり、〈それでも生きる価値がある〉と、おためごかしをいわれるより、おまえは「聖性と戯画との境界上にある」といわれるほうが、なんだか救われる気がする。得心がいく。価値があろうがなかろうが、生きるものは生き、死ぬものは死ぬのだ。

辺見庸.『月』(角川文庫) (pp.79-80). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

辺見庸氏の小説『月』からの引用である。辺見氏は、小説家、ジャーナリスト、詩人。元共同通信社記者。1991年に『自動起床装置』で第105回芥川賞受賞。『もの食う人びと』(1994年)などのルポルタージュでも異彩を放つ。他の代表作に『赤い橋の下のぬるい水』(1992年)、『水の透視画法』(2011年)などがある。

『月』は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件を題材にした小説である。しかし、普通の小説を想定して読み始めると度肝を抜かれることになる。一人称で語られるのは寝たきりで目も見えず話もできない「きーちゃん」という障害者本人である。その「きーちゃん」の視点で話は進んでいく。そこに施設スタッフの「さとくん」が登場する。彼が最後には事件を起こすことがさまざまな予感によって仄めかされることになる(実際に、相模原での事件の犯人である植松聖死刑囚も「さとくん」と友人たちから呼ばれていた)。

その過程でさまざまな問題点がきーちゃんの視点(ときに、さとくんの視点)で語られていく。引用したのは、人間存在の象徴としての〈顔〉について、哲学者エマニュエル・レヴィナスの言葉を引用しながら語られている部分だ。〈顔〉は一種の「人間存在」あるいは「他者」の象徴として語られる。この〈顔〉について、障害者である「きーちゃん」は綺麗事を言う有識者たちよりも、「顔(=ここでは「障害者たち」)は聖なるものとくだらないものの間にある」と述べるレヴィナスのほうが本当のことを言っていると感じている。この小説は「障害者の命の価値」といったテーマをめぐって、さまざまな言説や語りが述べられ、小説という形で話が進行していく。「障害者の命も私たちと平等なんです」と綺麗事を言おうとする人すべてに、この小説は強烈なパンチを喰らわせ続ける。

善人面して、金のためならなんでもやる業界。施設。きれいごとですませるアホNHK、クソ朝日……。そのくせ共生とかきずなとか地球市民とかいいまくる手のつけられない偽善集団。おまえたち、オシアワセでゴジュンチョウな、ほんとうは底意地のわるいやつら。冷たいこころの偽善者たちめ、甲子園球場の内野と外野にぜんいんで土下座し、きっちり切腹しろよ、切腹。〈さとくん、ごめんなさい。国民のみなみなさま、すみませんでした〉といえ!
じぶんがにんげんかウサギか、生きているのか死んでいるのか、どこにいるのか、なぜいるのか、幸せか不幸か……も知覚できない、入所者さま、患者さま。あたまに顔に首に手脚、性器、指……にんげんのかたちをしているだけで、ただ、それだけで、だれもが同等で同格のにんげんといえるのか。セイタカアワダチソウにからまり、風になびく、うすよごれたビニール紐にどんな価値があるのだろう。ひからびた痰、こびりつく唾に、どんな意味があるのか。なんねんもなんねんもたれながしの、たんに息するだけの物体。遷延性の意識なきもの(永遠の〝心失者〟)も、ふつうのにんげんといえるか。

(上掲書, p.296-297)

興味を持った方はとにかく一度読んでみてほしい。今まで味わったことのないような強烈な体験となることだろう。この社会に暮らしている限り、絶対に目を背けることのできない現実を、小説という形で、リアルにまざまざと深く描いた傑作である。そして、何とも言えない後味の悪い、結論を出すことのできない、底のない沼のような問いに私たちは引き戻されていくことだろう。

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