見出し画像

「まだ思惟されていないもの」としての価値形態論——柄谷行人『マルクスその可能性の中心』を読む

それは、マルクスがそうしたように、断片としてのテクスト、けっして透明な意味体系に還元されないテクストを見出すことである。いうまでもなく、価値形態論がそのようなテクストである。むろん、私は経済学者や哲学者がそれに論理的な整合性を与えようとしてきた努力を無駄だというのではない。だが、私がそこに読むのは、むしろ「論理的なもの」そのものの起源なのである。
ハイデッガーはいっている。

思惟することが問題である場合には、なされた仕事が偉大であればあるほど、この仕事のなかで「思惟されていないもの」、つまりこの仕事を通じ、またこの仕事だけを介して「まだ思惟されていないもの」としてわれわれのもとに到来するものは豊かである。(Der Satz von Grund)

「価値形態論」の豊かさは、そこにおいて「まだ思惟されていないもの」を到来させるところにある。すべての著作家は一つの言語・論理のなかで書く以上、それに固有の体系をもつ。しかし、ある作品の豊かさは、著作家が意識的に支配している体系そのものにおいて、なにか彼が「支配していない」体系をもつことにある。それこそ、マルクスがラッサール宛ての手紙でいったことである。私にとって、マルクスを「読む」ことをは、価値形態論において「まだ思惟されていないもの」を読むことなのだ。

柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社, 1990. p.24-25.

柄谷行人については昨日の記事でも取り上げた。本書『マルクスその可能性の中心』は、文芸誌「群像」(講談社)で1974年4~9月号に連載した後、1978年に単行本になった本で、亀井勝一郎賞を受賞している。

本書が書かれた1970年代半ばというのは、70年代初期に新左翼が崩壊し「マルクスはだめだ」といわれた時期だった。さらに遡ると、柄谷がマルクスを本気で読み出したのは1960年代初期に、「イデオロギーの終焉」が唱えられ、「マルクスは終わった」といわれた時期からだったという。つまり、柄谷は「マルクス=ヘーゲル主義の終焉」においてのみ、いいかえれば、ポスト・ヘーゲルの思想家としてのみマルクスを読もうとしてきたのだという。何が終焉しようと、驚くことはない。なぜなら「資本主義」は終焉していないからである。というより、「資本主義」は終焉を無限に先送りしてしまうシステムとして、「終わり」(目的)において考えてしまう我々の思考そのものを常に裏切ってしまうからだ、と柄谷はいう。

柄谷はマルクスを読みながら、彼が以後問題にし続ける「外部性」の問題を問うている。マルクスは「商品ほど奇怪なものはない」と驚く。なぜなら、商品はまったく異なる二つの物の価値を等価とみなしてしまうからだ。この「等しからざるものを等値」する装置として商品はあり、その前提として貨幣の体系がある。この貨幣の体系を前提にしてしまうような、意識や論理が覆い隠している「無意識」の層、「等しからざるものを等値」し、体系を体系として成立させている潜在的なものをこそ問うべきである、というように柄谷はマルクスを読み進めていく。その「読解の方法」の中で、マルクスとフロイトが、マルクスとニーチェが出会わされ、衝突させられていく。その間から、形而上学の根底に潜む「貨幣形態」の起源への問い、体系の起源への問いが発せられることになる。

その体系の起源への問いとは、「剰余価値」が生み出されるのはなぜかという問いである。等価交換であるとすれば、決して利潤につながる「剰余価値」は生まれでてこないはずなのだから。「価値」はどこから生み出されるのか。「価値」は商品に内在するのではなく、「交換」によって生み出される。つまり、ある価値体系における相対的価値が、別な体系に移しかえられたときに価格差が、剰余価値が生じるのである。これが柄谷がいう「外部性」の問題である。そもそも商品をある体系の内部から外部へ引きずり出す手段は、商品をめぐる論理の「外部」の問題である。論理はその結果だけを追認していく。価値形態の起源を問うたとき、そこに浮かび上がってくるのは、価値の体系を支えている論理ではなく、二つ以上の異なった体系が媒介されて成立する交換と変換の過程である。

柄谷が問うているのは、この二つ以上の異質な価値体系(外部性)が、いかにして等価形態の中に(内部性)引き込まれるのかという問いである。ここから、相互に異なる価値体系の間で、いかにして「交換」や「伝達」が可能になるのかという、不可能性への問いが生まれてくる。本書の解説で小森陽一氏は「なにごとかについて、〈同〉じという思考を発動したその瞬間、ただちに始動しはじめる〈異〉の感覚こそ、言語という〈内部〉に自らを閉じ込めて思考することによって、〈外部〉と〈他者〉について考えようとした、柄谷のいまだ「思惟されていないもの」にむかう可能性を胚胎していたのである。」と書いている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?