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「日本教」とは何か——山本七平の考えた日本人の条理

日本教にはもちろん神父がいます。(中略)ここでは簡単に私の結論だけを申し上げましょう。
①日本人には、人間(という概念)があり、これから万人共通(と日本人が考える)の一つの基本的な教義を引き出し、その教義に基づいて相手を説得するわけで、何かを論証するのではない。(中略)
②日本語そのものが、いわば日本教の宗教用語であって、その基礎は教義であって論理でないこと。従って、この教義をはなれると日本語は全く意味をなさない言葉になってしまうので「(教義を使用して)条理をつくして諄々と説く」以外に、言葉を使う方法がない。
以上の二つは、明らかなことと私は考えます。私が日本教と申しますのは、この教義を支えている一つの宗教です。

イザヤ・ベンダサン『日本教について』山本七平訳, 文藝春秋, 1972. p.22-23.

著者イザヤ・ベンダサンは、山本七平のペンネームである。しかし当時はそれを明らかにしていなかったので、この本においては「イザヤ・ベンダサン著、山本七平訳」という風になっている。1972年に書かれたこの本は、前年に出された『日本人とユダヤ人』において出てきた「日本教」とは何かということについて書かれたものである。山本の「日本教(人間教)」の思想の深みが味わえる一冊となっている。

この本において最初に登場する話は「踏み絵」である。江戸時代、踏み絵によってキリスト教徒かどうかを判別したのは有名な話である。しかし、山本いわく、日本人の考え方では「どういう理由で踏み絵を踏んだか(踏まなかったか)」は問題にされないという。とにかく「踏まなかった」ならば無罪放免、「踏んだ」ならば罰するという考え方になっている。これは、日本人の言葉づかいや、言論のあり方においても同様だという。日本人は相手を論理によって説得するのではなく、「諄々と相手を諭す」のである。これを山本は、日本語とは「ロゴス(論理)なきロゴス(言葉)」であると表現している。日本人は、相手に対して論理をぶつけているのではなく、「言葉の踏み絵」をぶつけているにすぎないというわけである。このことを山本は、日本人とは「論理」を重視するのではなく「条理」を重視すると表現する。「論理」はロジックであるが、「条理」とはシークエンス、つまり(矛盾をはらんでいたとしても)言葉が順を追って紡ぎ出され、何らかの結論に向かうということを指す。

この日本教の教義の中心にあるのが「人間」という概念である。日本人は論理や合理性を飛び越えて、人間を中心とした考え方を重視する。「人間性」「人間味ある」「人間らしい」とされる考え方は何ものよりも重要である。この教義を中心としてあらゆるものは判断される。そのとき、それが論理的に破綻していても、矛盾をはらんでいたとしても問題とはならない。「論理」よりも「条理」が重視される。そして、誰かを説得するときには論理ではなく、条理をさとして諄々と説くわけである。

この人間を中心にすえ、論理や合理性を欠いていても条理を重視する考え方は、日本人の「奇妙な」行動を説明する一つの理論と言えるかもしれない。日米開戦や戦艦大和の特攻など戦時中の事例だけでなく、この『日本教について』においては、三島由紀夫が自決したときの「檄文」にも触れられている。1970年のことであるので、本書が書かれた直前の事件である。当時、三島は狂ったのではないかと考える識者も多くいた。しかし、山本いわく、「檄文」の文章をよく読むと、ちゃんと「正気」を保った人が書いた文章であるという。それなりに筋は通っているのである。しかしながら、三島がなぜ自決しなければならなかったのかは、普通に考えたら「謎」であり「奇妙」である。戦後の一作家が憲法問題に日本の命運を賭けて、そして武士のように切腹して死ぬ。極めて論理的であるように見えながらも、そこには論理のねじれのようなものがある。三島が命を賭けて表現しようとしたこととは、檄文で書いてあるような日本の政治的体制云々といったものではなく、その論理を超えた「条理」であったのではないか。日本人の思想や行動をみるときの一つの視点として「日本教」という考え方は非常に興味深いのである。

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