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「学問」と「哲学」の違いは何か——京都学派の哲学者たちの「戦争協力」から考える

上田(閑照)さんは、地球そのものが今、本当に危険な状態だと言葉を重ねて強調したうえで、こう続ける。
「哲学はその逆です。決められたこと、決まったように見えること、それはすべてではない。もっと別なことがあると。その外があるという、そのセンス。それが非常に大切だと思います。」
目の前のものがすべてではないと考えること、そして想像すること——ともすると狭い考えに陥り、他を否定してしまいがちな私にとっても、身にしみる言葉だった。他者をしっかりと想像する思考力こそ、今、問われている。

NHK取材班編著『日本人は何を考えてきたのか 昭和編 戦争の時代を生きる』NHK出版, 2013. p.228.

本書はNHKの番組をもとにした書籍で、日中戦争から太平洋戦争に向かう時代の思想家たちを取り上げている。第三章は西田幾多郎と京都学派について、その「戦時協力」について書かれている。西田自身は戦時中の日本の帝国主義的な姿勢を真っ向から批判したりしている。しかしながら、西田の弟子たち、三木清や田辺元といった京都学派の哲学者たちは、海軍高官たちと1942年(昭和17年)から翌年にかけて、実に18回もの秘密会合を開いていた

哲学者たちは海軍と何を話し合っていたのか。開戦前に京都学派の学者たちが海軍との話し合いで狙っていたのは「対米戦争の回避」であった。しかしながら、開戦後の1942年からの秘密会合では、その目的が「大東亜共栄圏をどのように理論づけるか」ということに変質していったのである。

日本はアジアの「盟主」であるべきだが、他国と「共栄」する。しかし「盟主」であることと「共栄」することはある意味矛盾をきたす。哲学者たちはこの矛盾の解消をおこなうために哲学を「悪用」した。そこには、アジアの国々の視点に立ったときに、日本がどのように映るのかといった「他者のまなざし」が失われていたと言える。しかし、本来の哲学の意義とは、自分の思い込みや自分が囚われているフレームの外に出るための、つまりは「他者のまなざし」を思考する想像力を培うことだったのではないか。冒頭引用の上田閑照氏(京都学派哲学の研究者)の言葉は、まさにそのことに言及している。そこに単なる「学問」と「哲学」との違いがあるはずなのである。

西田の直弟子の一人、三木清はドイツに留学し、マルティン・ハイデガーにも学んだという一流の哲学者であった。しかし彼をしても、当時の哲学者の役割とは「現在の日本に課せられている現実の問題の解決」を目指すために「知性の立場からの自発的な協力」をするべきだと述べ(三木清「知性人の立場」『知性』1938年7月)、日本の戦争を正当化して、思想的・理論的にに戦争協力をしてしまったということは否めない。(ハイデガーという哲学者もナチス党員だったことや、彼の「黒ノート」に書かれていた反ユダヤ主義的思想はいまだに議論を呼び続けている。)

しかし、三木清には悲劇的な運命が待ち受けていた。彼は思想家・哲学者たちの中では珍しく「戦場」に赴いている。太平洋戦争の直前、日本軍政下にあったフィリピンである。三木はそこで10ヶ月を過ごし、現地の人々に「東亜開放の真義を徹底させる」という宣撫工作を担った。フィリピン滞在の経験は、おそらく三木自身の哲学に対しても激しい自己批判を迫るものであったろう。三木の戦場体験は、哲学者が机上の空論から抜け出て、哲学の本来の意味に立ち戻るための転換点となりえた。しかし、三木は終戦直後の1945年9月末に獄中死する。治安維持法違反の容疑者をかくまい、逃亡させたという容疑で同年6月に収監されていたのである。衛生環境が劣悪だった刑務所の中で疥癬という寄生虫感染症にかかり、腎不全も起こし、最後は寝台から転落して死んでいるところを発見された。三木の師匠である西田幾多郎も同年6月に亡くなっているが、鎌倉の自宅で穏やかな最期を迎えたことと比べると、この師弟の哲学者たちの運命が、戦争とどう対峙するかというところで大きく分かれたという印象をぬぐいえない。哲学者が戦争にどう向き合うかということを問われた極限的な時代であった。



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