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『ささやき 立原透耶著作集 5』(彩流社)解説

*本稿は、表題の作品集に寄せた解説のオリジナル原稿です。ぜひこの『ささやき』という作品の魅力を多くの人に届けたいと思い、ここに再録させていただきました。

 立原透耶の代表作を収録する著作集、いよいよこの第五巻をもって完結である。その掉尾を飾るのはホラーテイストあふれる3篇、『ささやき』(2001)、『彷徨い人の詩 聞け、魂の祈りを』(2001)、そして『青の血脈~肖像画奇譚』(2013)。このうち『青の血脈』は、創土社の『クトゥルー・ミュトス・ファイルズ』というアンソロジーの一冊に収録された中編で、立原の単著に収録されるのは今回が初めてだ。
 ここまでの巻に収録された作品群とはやや趣の異なるこの三作品で、立原透耶の作品世界の全貌がようやく明らかとなった感がある。その豊潤で多彩な想像力の生みだす作品群が、その一部とはいえ、こうしてまとまった形で読めるようになったのは重要なことだ。

 立原は、集英社の主催するコバルト・ノベル大賞の読者大賞を1991年に受賞した。この読者大賞はコバルト・ノベル大賞内に1989年から新設された部門だが、今野緒雪(「マリア様がみてる」シリーズ)や須賀しのぶ(芙蓉千里シリーズ、『革命前夜』他)など、「若い才能が煌めくコバルト文庫の黄金期」(嵯峨景子『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』、彩流社、2016年、117頁)を支える新人作家を多数輩出した。もちろん立原もその一人だ。
 その立原の読者大賞の受賞作「夢売りのたまご」は、本著作集の第一巻『凪の大祭』に収録されている。おそらくこの作品を大賞に選んだ読者にとっては、「かわいらしい寓話的ファンタジー」と映ったに違いない。だが、小谷真理が著作集の解説で「ガジェットのかわいらしさとロジカルなおもしろさとが絶妙なバランスを保ち、作品全体を斬新で引き締まったものにしている」と評しているとおり、メルヘンな雰囲気のなかに世界の探求、自己発見という主題を盛り込んだ野心作だった。

 上記の嵯峨の著作によれば、80年代後半のゲーム文化の勃興が少女小説にも影響を与え、コバルト文庫も前田珠子、若木未生、桑原水菜らを相次いでデビューさせ、「ファンタジー、そして少年を主人公としたサイキックもの」(嵯峨、上掲書、109頁)を中心とした路線へとかじを切った。こうした新たなファンタジー系少女小説の隆興の中から生まれてきたのが、小野不由美の《十二国記》(1992年よりスタート)であることは、もはや周知の事実だろう。
 受賞の翌年、立原とうやの筆名で、《シャドウ・サークル》シリーズの第一作『後継者の鈴』がコバルト文庫から出版された。この《シャドウ・サークル》シリーズ(1992~93)や《ダークサイド・ハンター》シリーズ(1993~94)は異世界ファンタジーにサイキック少年ものと、まさにこの時期のコバルト文庫の王道ものとしてヒットシリーズとなった。だがこれは必ずしも立原の本意としたところではなかったようで、「夢売りのたまご」とはかなり異質な作風でのデビューとなった理由については、第一巻のあとがきに記されている。
 『後継者の鈴』のあとがきで立原は、エドマンド・ハミルトンや「キャプテン・フューチャー」やロジャー・ゼラズニィやらのSF作家の名をあげ、コナン(もちろん宮崎駿ではなく、ロバート・E・ハワードの方)やマイクル・ムアコックの「コルム」などのファンタジーへの愛を熱く語っていた。その溢れんばかりのSF愛にはめんくらった若い読者もいたかもしれない。この立原のSFや本格ヒロイック・ファンタジーへの想いと、コバルト文庫という媒体や読者の求めるもの、その両者のはざまでできうる限りのバランスをもって書かれたのが『凪の大祭』だったといえる。そしてその後の立原が、同じく集英社から刊行されていたスーパーファンタジー文庫に活躍の場を移すのは、少女小説という枠から生まれたコバルト文庫とは異なる環境をもとめてのことだったのだろう、と今では想像がつく。
 まずはハードボイルドな雰囲気の《チャイナタウン・ブルース》シリーズが、コバルト文庫の《CITI VICE》シリーズ(1995~96、著作集第二巻に収録)と並行して、スーパーファンタジー文庫から刊行された(第一巻の巻末にある全著作リストでは、《チャイナタウン・ブルース》はコバルト文庫とされているが、私の手元にあるシリーズ第一巻『絆』は講談社スーパーファンタジー文庫で、奥付もリストと同じ1995年2月10日となっているので、おそらくスーパーファンタジー文庫刊で間違いはないはずだ)。
 その後、立原にとっての最長シリーズとなる《冥界武侠譚》(1997~2000、著作集第三巻、第四巻に収録)が終了するとともに、この少女小説路線から大きくかじを切る。ひらがな交じりの〈立原とうや〉から〈立原透耶〉へとペンネームを変え(本来はこの漢字表記だったらしいが)、最初に発表したのが『闇の皇子 炎の剣篇』(2000、著作集第一巻に収録)だ。このダークファンタジー路線がその後の、いってみれば立原の〈第二期〉を彩る重要なジャンルとなる。『彷徨い人の詩』(エニックス)、『銀の手のシーヴァ ハカセとコトリ』(ソフトバンククリエイティブGA文庫、2007)、そして中国でも翻訳出版された異世界ファンタジーの傑作『竜と宙[そら] A DRAGON AND SPACE』(幻冬舎コミックス、2009)など、まさに立原がその本領と趣味を発揮した作品群が、この二一世紀最初の一〇年間に生み出された。
 もう一つ、この時期の重要な作品群がホラー・怪談系だ。その先鞭を切ったのが『ささやき』(ハルキ・ホラー文庫)であることは言を俟たないが、2009年に出版された『ひとり百物語 会談実話集』(メディアファクトリー)は、その後《会談実話集 ひとり百物語》としてシリーズ化される大ヒット作となった。『夢の中の少女』(2010)、『闇より深い闇』(2011)、『悪夢の連鎖』(2012)などのほか、同工のアンソロジーも次々と出版され、もちろんそこには立原も寄稿している。この2010年代のホラー・怪談系を立原の〈第三期〉としてみたときに、「青の血脈」は立原ワールドの、ある意味集大成であると同時に、新たな展開を予想させる作品として重要な意味を持ってくるだろう。

『ささやき』
 立原のもっともホラー的な作品が本作だ。「恋人もいなければ、親友と呼べる人間もいない」、そして家族とも疎遠な生活を送っている「私」は、ある日〈彼〉と出会う。どこの誰ともわからず、他の人間にはその存在を感知できない〈彼〉だが、「私」は〈声〉の虜となる。〈彼〉から渡された携帯電話への着信を待ちわびる日々。孤独の中で〈彼〉だけをひたすら求める「私」の耳には、〈彼〉の声以外の音はすべて耐えがたい雑音となっていく。その一方で、「私」の周囲では猟奇的な連続殺人が発生し、不穏な空気が漂う。そしてある日、「私」はとうとう待ちわびていた〈彼〉との再会を果たす……。
 この第一話「ベルの音が」に続く第二話、第三話、第四話と読み進めるうちに読者は、一途で純粋な愛情(とみえていたもの)がつぎつぎと狂気へと姿を変える展開に慄然とするだろう。そして第五話と第六話では、行方不明となっている第一話の「私」(ここでようやく、「私」が諒子という名であることがわかる)の姉など、第三者の視点から物語が語り直され、ここまでのエピソードをつなぐ糸が明らかとなる。そして、諒子にひそかに想いを寄せ消息を訪ね歩く辰巳(元同級生のカメラマン)の前に〈彼〉が現れ、物語はクライマックスを迎える。
 先に、『ささやき』はもっともホラー的な作品とは書いたものの、じつはここにはホラーとしての重要な要件が欠けている。それは、少なくとも第一話から第四話の登場人物は、読者の情動を反映させる「鏡像」の役割を果たしていない、ということだ。戸田山和久は『恐怖の哲学 ホラーで人間を読む』(NHK出版新書、2016)で、ホラーの登場人物は「観客にどのように反応すべきかのお手本を示す」存在であるという。
 ホラーの読者は、「登場人物がなんらかの脅威に直面して、その脅威をもたらす対象に恐怖・嫌悪の情動を抱く状況」を読み、同じような恐怖・嫌悪を体験することを求めている。たとえばエドガー・アラン・ポーのゴシックホラーの古典、「陥穽と振子」、「告げ口心臓」、「黒猫」、「赤死病の仮面」などはいずれも、この戸田山のいう「登場人物の恐怖・嫌悪」を読者に巧みに共有させることに成功した、みごとな例といえるだろう(そもそも、ホラー読者は何のために恐怖・嫌悪を体験したいのか、などと論じはじめたらきりがないので、それは割愛させていただく)。
 ひるがえってみるに、『ささやき』の第一話の「私」=諒子から第四話の「ヒロくん」までの焦点人物たちはみな、〈彼〉にたいして恐怖をいだいていない。孤独や疎外感にさいなまれている彼や彼女は、唯一の理解者として〈彼〉を求め、その存在にどうしようもなく惹かれていく。そしてその〈彼〉への執着に反比例するように、周囲の人間や社会に対して激しい憎悪や嫌悪感を増幅させていくのだ。この〈世界に対する自閉した悪意〉とでもいうべきものが、じつは〈彼〉という存在の根幹にかかわるものであることは、すでに作品を読んだ読者には理解してもらえるだろう。
 その悪意のもたらす破滅と、その先にある「世界の終末」までをも描き出す本作は、そこでホラーというジャンルの枠を超える。辰巳から〈それ〉とよばれるようになったものの正体とそのもたらした結果が明らかになったとき、なぜかそれを目の当たりにした辰巳は、奇妙な諦観と幸福感を感じる。この結末は、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』をはじめとする、「ゆるやかな破滅」を描くSFに通じるものだ。この世界を生まれ変わらせるために、諒子たちは人間ならざる者に姿を変え、辰巳には手の届かないものになってしまった。だが辰巳はその距離に絶望するのではなく、諦念をもって受け入れる。ある種、ホラーにはあるまじき結末ではないか。
 ではこの作品のホラーたるゆえん、恐怖はどこにあるのか。それは恐怖すべきものに恐怖しない登場人物たちと読者の距離と、それが溶解する瞬間にある。恐怖すべき対象に魅せられていく彼らに、読者は自分自身の情動的反応をゆだねることはもはや不可能だ。その意味で、先述の一般的なホラーの機能は、本作には見出せない。だがその登場人物たちに違和感や苛立ち、絶望などをもたらす世界は、私たちの日常そのままの現実でもある。この作品世界が現実と地続きであることを理解したとき、その恐怖すべき対象がじつは外部ではなく、自分の内部にこそある、ということに読者は気づく。自己の中にあるものが、この恐怖すべき他者を呼び込んでしまう。それこそが本作の描く本当の恐怖だ。恐怖すべきは他者ではなく、自己の中にある他者、あるいは自己が自己にとって他者となる瞬間なのだ。
 フレッド・ボッティングは『ゴシック』(1996)で、ゴシックは他者への恐怖を描くジャンルであると喝破し、その恐怖がさまざまに変奏されながら現代のホラーにつながっていく歴史を鮮やかに辿ってみせた。このボッティングの古典的ゴシック論は今でも説得力あふれるものだが、そのボッティング流ゴシックとは異質の新たなホラーのあり方を示す『ささやき』は、今だからこそ再評価されるべき作品だ。

『彷徨い人の詩 聞け、魂の祈りを』
 だいぶ『ささやき』に紙幅を費やしてしまったので、ここからは残りの二編を簡潔に紹介しよう。
 『彷徨い人の詩 聞け』は、先に述べたダークファンタジー期の代表作である。と同時に、読者を作品世界に引き込む一人称の語り手=主人公の強烈な個性とテンポのよい語り口は、第一期の集英社/コバルト時代に若い読者向けに培ったスキルが存分に生かされている。
 人間と妖魔が相争う世界で、妖魔の王の子として生まれながら、人間的な外見と感受性を持って生まれてしまったがために家族に疎まれ出奔した主人公=語り手のゲオルグは、人間と妖魔の混血児にして妖魔狩人のラーディゴストと出会い、旅の仲間となる。二人はともに助け合いながら、ときには人間を守るために妖魔と闘い、ときには人間の醜さや欲やエゴに翻弄される。そうした経験をへて、彼らは人間と妖魔が共存し友情をはぐくむことがけっして不可能でないことを実感し、その融和の象徴たる世界樹を探し出そうと決意する。物語はここでいったん幕を閉じるが、それはいってみれば「第一部完」といったところで、その後の世界樹の探求の旅を描く続編が期待されるところだ。
 本書の特徴は、二人が出会うさまざまな出来事や人物などが、定型的なファンタジーのそれではなく、よりゴシック的、ホラー的な造形がなされているという点だろう。立原が事あるごとにその愛着を語るマイケル・ムアコックの「エターナル・チャンピオン」シリーズに近いが、よりホラーに接近した雰囲気が醸し出されている。
 その一方で、屈託を内に秘めながら明るくひょうきんにふるまおうとするゲオルグの語りは、そのホラー的、超自然的な不穏さを中和する役割をはたしている。あるいはそれは、『ささやき』にもある客観的な視線、対象との距離感を醸し出す技法というべきかもしれない。その意味で、本作もやはり恐怖やホラーのあり方についての探求の、ひとつの帰結ともいえる。

『青の血脈~肖像画奇譚』
 収録作中の最新作が、この『青の血脈』である。そしてすでに読まれた方にはお分かりのように、本作はクトゥルー神話を下敷きとし、そこに東西の文学的名作をモチーフとして散りばめた野心的な作品だ。アンブローズ・ビアスの短編、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、中島敦の「山月記」、さらには中国の怪異談などにクトゥルー的な再解釈を施し、時間と空間を超えてそれらをつなぐ一本の物語を紡いでみせている。それだけでも力業なのは間違いないが、さらに最後に待つどんでん返しは、読者をさらに驚愕させるに違いない。
 単純にクトゥルー的存在を日本に出現させる、いわゆる和風クトゥルーものとは一線を画した本作で、立原はクトゥルー/ラブクラフトの本質がゴシック的想像力にあることを、メタフィクショナルな構造として示している。

 この巻に収録された作品は三篇にとどまっているが、立原透耶のホラー/ゴシック的想像力の精髄を存分に発揮した傑作ぞろいだ。この世界に魅せられた方は、ぜひ改めてこの著作集の他の巻に収録された作品にも手を伸ばしてほしい。ジャンルは異なれど、そこには立原透耶という表現者の、一本筋の通った作品世界がかならず見えてくるはずだ。
 そうして一人でも読者が増え、その声が集まって立原の他の作品がさらに復刻、再刊されることを祈ってこの解説の筆をおく。

*追記 著作集の解説では漢数字出会った部分を、算用数字に変更いたしました。


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