正解はない
養老先生の切り抜きを見た。
それなりに養老先生の本を読むようになったが、まだまだ知らないエピソードが多い。同時に「あ〜、なるほど」と感心することが多い。
戦後に教科書に墨を塗る経験をしたことを話している。これは今まで常識だったことが間違っていたから、墨を塗って無かったことにする。そういうことなのだろう。
日本国民全員が信じ込んできたことを無かったことにする。
この経験をしてから世の中ってそんなもん、と思うようになったようだ。テレビや新聞が嘘をつくと言われても、そういうもんだと。
コロナ禍でも日々、様々な対処方法が報道されたが、千差万別でどれが正しいの?と疑問を持つことがあった。
こういうことに対して、養老先生はどこか遠い目で見ていたんではないだろうか。そもそも当てにならないことは分かっているから、見ていないのかもしれない。
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他に「通説」についても話している。
「通説はそういうもの」でしかない。
それに対して、変だなって思ったら自分で考えるしかない。分からなくて疑問に残ったことは頭に残しておく。それがいつか何かと繋がる。そう言っている。
この考えは分かる。通説は通説。皆がそう思っているのだがら、誰かに聞いても「え、そういうものでしょ?」で終わってしまう。なら、自分で考えるしかないよね、と。最後は自分でどうにかするしかない。
しかし、分からないことを頭で残しておくという辛抱は難しいと言う。
こんな具体例を話していた。
「コップの中にインクを一滴垂らして、しばらくしたら消えるだろ?どうして消えるんだ?」と聞いたら、「そういうもんだ」と言う。
不思議なことでも、「そういうもの」で理解しておくと頭を使わない。辛抱する必要がない。モヤモヤしたことを頭に残しておくには体力がいる。
この感覚は分からないでもない。臭いものには蓋をする、そんな感覚。開けなければどうってことはない。けれども、私は蓋をするのにためらいがあるというか、蓋をしても少し臭ってくる。その方が耐えられない。どこか頭の片隅で考えてしまう。
頭の片隅に問題が残せる人は脳が丈夫だと言う。脳が良くても体力がなければ考えられないので、脳が良いよりも丈夫の方がいい。
スポーツマンガに出てくる天才はすごいことをするかもしれないが、体力面に問題があることが多い。持久戦に弱い。そう考えると、この話も納得しやすいのではないだろうか。
この手の分からない問題に直面したら、「そういうもんだ」になる前にやはり疑問を持ち、解決しようとする。そのために答えを聞く。しかし、問題点として答えを聞けば分かると思っている。
養老先生は男子学生ばかりを教えていたので、「じゃあ、お前ら陣痛説明したら分かるのか?」と(笑)
説明責任という言葉を聞くとすぐ、この陣痛の話を思い出すそうだ(笑)
分かったら苦労しない。でも、分からないからこそ、どういうことなんだ?と突っかかって欲しい。しかし、今はそこがなく、正解があると思い込む。
マルバツがよくない理由はそこにある。正解があると思い込む。でも、人生にマルバツなんてないでしょ?と。