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夢について考えたこと

あなたの将来の夢は何ですか?こんな質問を何度されただろう。
聞かれ、作文にしろと言うものだから、何とかそれを探さねばならず、何にしようかな…と夢を探しに行った人も少なくはないと思う。
とは言いつつも、私には昔から確固たる将来の夢があった。自慢げに言っているように見えると思うが、半分はそうで、半分はそうでない。

将来の夢。家庭以外の生活空間で、そんな質問をされた一番古い記憶は、幼稚園児の頃だったかと思う。
先生が、掲示物として園児たちの将来の夢を張り出すか何かで、外遊びの時間(と言っても園の柵内での外なのだが)に担当の園児一人一人に質問して回っていた。自分の将来の夢を開示するという事は、私にとって何とも言えぬ気恥ずかしさを覚えるものだった。インタビューのようにバインダーにメモをとる姿を見て、自意識過剰な私の気恥ずかしさは増しに増した。先生がブランコ側に行けば反対の滑り台側へ、ジャングルジム側に行けば対角線上にある三輪車乗り場へと逃げ隠れしていた。そんなことをしていたものだから、いよいよ残りの数名になってしまった。ついに先生が滑り台にいる私に一直線に迫ってきた。
「大人になったら何になりたい?」
「漫画家!」という言葉がすぐに浮かんでいた。それとほぼ同時にふっとある考えが横切った。僕は将来の夢なんて持っちゃいけないんだ!という何とも悲しい考え。私の実家には家業があり、それを継ぐことを両親、祖母や祖父、その他の関係者の人々から示唆されていた。私の身の回りには常に数十名の大人たちがいたものだから、私は常に周りにアンテナを張っていて、今自分がどう立ち振る舞えば良いか、どう他人に見られているかを気にしていた。私の置かれた状況に限らず、きっと多くの子供がそうなのかもしれない。そんなこんなで、自分の将来はもう半ば決まっているじゃないかと思ったのだ。
ぞうさん滑り台の塗装は擦り切れ、プラスチックのような素材に練り込まれたファイバーが剥き出しになっている。それとも座っていたのは金属製の滑り台の階段だったか…赤く塗られた足元の鉄板を見つめていた気がするので多分後者だろう。
「お父さんになりたい…。」
私はそう答えた。
誰もが皆、大人になればお父さんかお母さんになるものだと思っていたのだ。なんとも単純で、可愛いらしい考えである。そしてとても悲しいとも。私は子供ながらに、空欄の回答をしたのである。皆が父親になれるわけではない事を知っている先生は、それに納得したようだった。そこで、一緒に遊んでいたTちゃんが「はたぶ君は漫画家になりたいっていつも言っとるやん!」と一言。先生は「そうなの?」と確かめるが、「ううん、ぼくはお父さんになりたいです。」と答えた。
その後、幼稚園児たちの将来の夢が掲示物として消費されたのか、印刷物としてコピー機に挟み込まれてしまったのかは定かではない。
こんな風に、むかしの記憶というのは局地的に鮮明であり、おぼろげなのである。

夢を持つことは素晴らしいことであると教育されてきたので、それはまぁそうなのだろうと思っていた。今は経験から、それだけではない事を知っている。
時は経過し、漫画家以外にも絵の仕事があることを知った。人は大人になるたび何かを得て、何かを失うと言う。私の夢は「漫画家」から一文字失い、「画家」へとシフトしていた。地方の美術系の大学を卒業した私は、しがらみを断ち切るようにして、時に解いていくことで、磯の薫る海辺の故郷(といえば聞こえがいいが海藻が浜いっぱいに打ち上げられる日は大変な匂いだった。)から東京で画家として生きることにした。夢だけ持って上京したはいいものの、もちろんそれだけで食べていくことなんて全くもって出来ず、お金のために週に5日も6日も働いた。世間的にはフリーターと呼ばれる期間もとても長かった。あとちゃっかり恋愛もしてきた。
流行病が世界的な危機となっている最中に、(半分は自分の意思で)生計を立てるための仕事を失い、パートナーとの別れを経験した。7年間の同居の末にあっさりふられてしまった。私たちが利用できる結婚制度は日本にはなかった。彼との別れ際「結婚できていれば僕たちどうなっていたかは分からないね,」とかそういうことを言われたが、ふられた事がショックであまり覚えていないし、多分その制度があってもなくても、この人は私と生活することを選ばなかっただろうなと思う。同棲していたものだから、ふられた事により住むところを失ったというわけだ。住むところを探して仕事を探す。上京時と全く変わらない状況。再びいちから生活を整えていく作業。怒号が飛び交う新しい仕事先で、パワハラなんかもふんだんに受けながら、心身ともに疲弊していた。絵も、描けば描くほど下手くそに思えた。生活の立ち直しには結局2年間と半年ほどかかった。少しだけ話がそれたように思う。

こんなどうしようもない状況の中、もし、自分は画家なのだという夢とかプライドみたいなものが無ければどんどん選びたくない道に流されていってしまって、最後にはどうなっていただろうかと思う。もうだめだという時に限って、どんぶらこっこ…どんぶらこっこ…とよくない方向にぐんぐん流されていく。そんな時、私の手に触れたのは、川に洗濯に来た老婆でもなく、外の世界へと私を連れ出す出刃包丁でもなく、「画家」というその夢そのものだった。その頼りない一筋の藁をじっと掴んで絶えた。もちろん応援してくれる数人の友という外的なパワーはあったが、自身から生まれる内的なパワーとしては、自分が画家になるんだという夢とプライドだけだった。岸辺に上がるために、ただ本当にそれだけを頼りにした。

夢を持って東京に来た人で、絶望を一度も経験したことがない人は、よっぽどラッキーだと思う。もしそんな人がいるならば、その人に才能があったと言うことだけではない。それを肝に銘じて、決して奢ることなく生きてほしい。それくらいの僻みは言わせてほしい。
この世界の多くの人がきっとそう思うように、私だって何度かは「このまま諸々全てを終わりにしたらどうだろうか?」というアイデアが浮かんだことがあった。そんなの考えたことがないと言う人がいるなら、ぜひ会ってみたいと思う。けれど、なかなか話題に上がらない事なので、今まで会った人にそんな稀有な人間がいたのかどうかは分からない。
幸いなことに、私の場合、それはアイデアと呼べるくらいには考える余地と体力がまだあった。終わりにするって言ったって…なんだか痛そうだなとか、先にいなくなった弟に悪いなとか、家族が悲しむだろうなとか、そんな誰かのために…という終わらせない為の立派な言い訳を模索していた。
終わらせない理由ではなく、生きる理由というところでは、まだ夢を叶えずに死んでたまるかという悔しさがひとつだけあった。悔しがるだけの体力があった。「理不尽な事があって悲しい時は、打ちひしがれるのではなく怒らなくちゃいけない。怒ると言うのはパワーだから。」この言葉を私にくれた人はどこか変な人で、あまり積極的に会いたいと思う人ではなかった。なので、大した文脈で使われた物ではないと思うのだけど、文脈云々はとにかく忘れてしまって、言葉として、とてもいいものだなと思う。

なんだかんだその時ドラマチックな気持ちになっていただけで、本当は終わらせたくなかったんじゃないかと今は思う。そのつもりはなかったのかなと思う。あの時は本当に辛かったけど、それほど深刻じゃなかったのかなと思ってしまう自分がいる。こういう考えが今苦しんでいる誰かを死に至らせてしまうかもしれないのに。
自分の受けている苦痛を、自分よりもっと深刻な人がいるのだと比べる必要はない。世界には食べたくても食べられない人もいるんですよ!と、脅されたり泣いたり吐いたりしながら、給食を胃に押し込まれる時代は終わったのだ。

何かから逃げたくて…という考えではなくて、終わりというものが解放や美しさという甘美なものに見えていた。ちなみにそういう選択肢があるなら、すごく高い橋の上から大自然の中に、大きな空に向かって、羽ばたくようにダイブするのがいいのかなと思っていた。
夢をもて!と言って半ば無理矢理に、すりこみのように希望だけ持たせた後に、現実を見ろとゲンコツを叩きつけてくるというのは何とも納得しがたく、大変危険なやり方だなと思う。

夢を持たなければ良かったのに思ったことがあるかと言われれば、常にそうは思っていない。でも、もしそうだったら、どうなっていたかなと思うことが時々ある。現実と理想の乖離が大きければ大きいほど、理想・夢を持つことは辛いものだと思うし、今もそう感じている。しかし、夢を持って生きてさえいれば、あぁもうだめだ…というネガティブな川に流れていく自分を、陸に戻す一筋の光に…とはいかないけど、藁くらいにはなるかもしれない。
よく考えてみたら、夢によって苦しめられて、夢によって救われるという事になる。そこから連想するものが「DV」という言葉や「ストックホルム症候群」という言葉なのが、皮肉屋な私らしいと思う。
そこはきっと考え方ひとつ。そしてひとつの考え方として、夢ってものは、ない方が別の幸せを手に入れられるような…それでいて何とも引き剥がし難い厄介で迷惑な存在なのかも知れない。

その胸オレに貸してくれ 第12回 夢について考えたこと

おねがい

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