お祭りの維持継承を考えるー南魚沼市一村尾地区の太々御神楽を例にー
概要
南魚沼市一村尾地区は旧大和町エリアにあり、約290世帯、900人の地区である。この地区にある若宮八幡宮の「若宮八幡宮神楽舞」として、南魚沼市の無形民俗文化財に登録されている。(S46年10月18日)
通称名としては「若宮八幡宮十五夜大祭 太々御神楽」である。
発祥は江戸時代の宝暦年間(1751年〜1764年)と言われており、当初は7、8座の神楽と神事を合わせて奉納していた。現在のように32の神楽面を使って総数26座の神楽を奉納するようになったのは明治26年からであり、今年で131年目を迎えた。以前は9月15日に行われていたが、現在はその日に最も近い土日に行われている。
成り立ち
平安時代:小林社家の中で雅楽が受け継がれ奉納されていた。
宝暦年間(1751年〜1764年):7座程度の舞が奉納されていた。
慶応元年(1865年):北川岸次が小林宮司宅に寄寓し、2年かけて27の神楽面を彫る。小林吉輝宮司が神楽の再編に取り組み、地元の若者たちと十数年かけて修練を積む。その頃、五日町出身の井口長太郎「号は木痴(もくち)」が宇賀舞に使う3面、その他2面と合わせ32面を使う26座の太々御神楽が編成された。
明治26年(1893年):第1回奉納。現在のような26座の神楽になった。
大正時代:第67代小林吉邦宮司が当時の宮内庁に出向いて雅楽の教えを受け氏子に伝える。(魚沼市の須門神社にも同様の神楽が継承されている)
昭和46年:若宮神楽保存会発足
昭和57年:雅楽振興会発足
転換点
第二次世界大戦時(1939-1945年)戦時中、神楽の担い手が減少したが、戦地に赴く若者のため青年会によって神楽が奉納された。ここから送り出された人は全て帰還したという。しかし、昭和40年代には若者の流出や高齢化のため、神楽の担い手が7名まで減少。最大5名が舞うものがあり、存続の危機に陥った。
その状況を打開しようと、昭和46年には若宮神楽保存会が発足。これが大きな転機となった。
保存会では子ども教室を開催したり、市野江甲(北地区)の25軒程度の集落へも拡大するなどして担い手を増やす努力をした。これにより小学生の頃から神楽に親しむ環境が構築され、中学生から正式な舞子として舞殿に上がることができるようになった。また、元々神楽は神域で行われるため男性しか入れず、女性は稚児のみ(6歳〜12歳)であったが、昭和50年頃からは女性の舞子が誕生し、現在は未婚女性であれば女舞を舞うことができる。
一方新たな課題として、舞子志望の子どもが増加したものの、全員が舞子デビューできるわけではない状況が発生した。この状況を受け、地域の薮神小学校では発表会が開かれるようになった。
神楽の維持継承が地域にもたらすもの
昨今、高齢化や地域との関わりの変容から中止されるお祭りも多い中、若宮八幡宮の太々御神楽は地域の人の工夫や努力によって継承され、今年で131年目を迎えた。その結果、地域にはどのような変化があったのかを考察したい。
世代を超えた信頼関係
前述したように、保存会発足に伴い子ども教室が開催されるようになったことで、現在では6歳〜70代までが同じ舞台に立っている。この舞台の配役が決まるのは毎年8月末。9月1日から当日までの10日強を毎晩練習に当てている。その結果生まれたのは年配者と子どもたちとの交流である。舞子の子どもたちは祖父母ほども歳の離れた先輩を「師匠」と呼び親しんでいる。成長し、医療の道に進んだ女性は、「師匠がどうにかなっても私が面倒見てあげるから」と声をかけていた。
地域に対する当事者意識
大人たちには、地域一丸となって子どもを育てる意識が芽生え、親子3代で舞台に立つ者もいる。また、子どもたちには「ムラを守る」という意識が生まれ行動変容が起きている。子どもたちは通常、中学、高校などで離れてしまうと疎遠になるが、この神楽があることで同年代と仲良くなれ、大学等で一旦故郷を離れても、戻る理由になっている。また、神楽の楽しさを伝えようと、日頃学校でも友人に話したりするという。その甲斐あって、祭り当日には多くの子どもや若者たちが神楽を見学に訪れていた。
維持継承のために乗り越えてきた壁
最後に、他の祭礼の維持継承のヒントとして、この地域の人々がどのような壁を乗り越えてきたのかを整理しておきたい。
身分の壁:過去に遡ると、小作人は神楽を舞うことができない時代があることが分かった。現代では身分を明確に区別することはもちろんないが、日本の各地には未だにこうした慣習が残っている祭祀もあるのではないだろうか。
地区の壁:一村尾から北地区に範囲を広げたように、昔はその集落だけで行われていた祭りが境界を広げていく例は多い。人口減少社会において祭りを維持しようという際には必要な拡張である。しかし一方で、大型化、観光化されてしまった祭りでは、地域の文脈を知らずイベント的に入ってくる者たちによって本来の意味が失われてしまったり、地域の人との揉め事に発展したりする例も出てきている。地区の壁の拡張には、少なくともその地区の成り立ちや祭りの意味を知ってもらう教育を合わせて行う必要があろう。
年齢の壁:年齢の壁を拡張する場合、25歳を30歳に、20歳を18歳になど前後に広げることが多い。しかし一村尾の神楽が盛り返した最大のポイントは小学生に広めたことである。いくつかの研究では、中学生など思春期に入ると地域活動への参加が減ると報告されている。私が研究を続けている浦佐の裸押合大祭では中学校2年生への体験が行われているが、この年齢になると「裸になるのは恥ずかしい」など、思春期特有の反応が見られることは確かだ。「かっこいい」と純粋に憧れを持てる年齢にアプローチすることが有効なのではないだろうか。
性別の壁:今年(2024年)国府宮はだか祭に女性が参加したことは全国的に話題となったが、今でも男性のみで執り行われている祭祀は多い。もちろん宗教的な「穢れ」の概念や社会的な性別役割分担、そして伝統的な儀式の神聖性などが背景にあるが、未来への継承という観点で女性が参加する祭りも増えてきている。一村尾の太々御神楽のように女舞・男舞で分けたり、浦佐の裸押合大祭のように青年団に女性部を作ったりする動きもあり、今後この壁は次第に無くなっていくのかもしれない。
対面の壁:一村尾の場合、これまで練習はお宮に集まって対面で行うことが通例であった。しかし、コロナ禍を経て他地域との往来ができなくなったことから、zoomなどを活用した指導・練習が行われるようになった。これにより遠方に住んでいる他出子の参加が加速された。もちろん、会場の準備などは現地でなければできないし、祭りの形態によってオンラインが不可能なものも多い。しかし、これまで口伝・目伝で行われてきたものが現代の技術によって維持・継承しやすくなるのであれば、可能性を模索してみても良いのではないだろうか。
【参考文献】
大藤文夫・鶴岡和幸・栗川隆宏 『地域協働と担い手育成(3) ~多世代協働の観点から~』2015,広島文化学園大学ネットワーク社会研究センター研究年報11, pp8-9
武田俊輔『都市祭礼における周縁的な役割の組織化と祭礼集団の再編-長浜曳山祭におけるシャギリ(囃子)の位置づけとその変容を手がかりとして-』2016, 年報社会学論集
新里 早映, 中島 正裕, 安藤 光義『農村地域における住民の地域愛着に影響を及ぼす要因分析ー山口県長門市俵山地区を事例としてー』2018,農村計画学会誌
土屋篤生,植田 憲『無形民俗文化財「白間津大祭」にみられる担い手意識の醸成』2020, 日本デザイン学会第67回春季研究発表大会概要集
上原貴夫『地域における年中行事と子ども達の参加の 変遷に関する研究』 2013小川直之, “「民俗芸能」を継承する各地の取り組み” 2020-5-25, 「文化遺産の世界」編集部, https://www.isan-no-sekai.jp/report/7243
太田壮哉・長谷川直樹・小池博『中学校での地域貢献活動プログラムによる地域の愛着・地域貢献意欲への影響分析』2022,公益社団法人日本都市計画学会 都市計画論文集 Vol.57 No.3
田中大介『子どもは生まれ育った地域をどのように捉えているのか:鳥取県東部における小・中・高校生に対する意識調査』2019
にいがた観光ナビ, 「若宮八幡宮十五夜祭・太々御神楽」, https://niigata-kankou.or.jp/event/2060
南魚沼市教育委員会『大和町の近世』2019.7
南魚沼市教育委員会『大和町の近・現代』2020.4
南魚沼郡誌編集委員会『南魚沼郡誌』1971
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?