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広島市長になった元新聞記者が、平和宣言でどうしても言いたかったこと

また今年も8月6日がめぐってくる。コロナの影響で、昨年同様、限られた人しか近づくことすら許されない「閉ざされた」式典の中、広島市民を代表して、広島市長が「平和宣言」をする。春以降、断続的に話を聞いてきた元広島市長で元中国新聞記者の平岡敬さん(93)も、1991年から1998年までの計8回、広島市長として平和宣言を編み、そして原爆死没者慰霊碑の前で発した。どんな思いで臨んできたのか、話を聞いた。8月6日の意味を、そして、平和を願う人たちの輪の中で広島がどうあるべきかを、改めて考えるきっかけにしたい。

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ひらおか・たかし 1927年、大阪市生まれ。大阪、朝鮮半島、広島で育ち、京城(現在のソウル)帝国大学在学中に終戦を迎える。52年、中国新聞社に入社。編集委員、編集局長などを経て、中国放送(RCC)社長に。91年から2期8年、広島市長を務めた。著書に「偏見と差別」(未来社)、「無援の海峡―ヒロシマの声、被爆朝鮮人の声」(影書房)、「希望のヒロシマ」(岩波新書)など。

(取材は7月28日、広島市中区の「ソーシャルブックカフェ・ハチドリ舎」で)

「欧米」ばかりで「アジア」を見てこなかった広島

ーー今日は8月6日の平和宣言のことを聞きたくて。改めて、広島市長時代に平岡さんが書いた平和宣言を、広島市のホームページで全部読んでみたんです。歴代の平和宣言を全部並べているページのトップに、かいつまんで、各年の平和宣言のポイントを記している。そこに書かれていることを見ると、1991年の平和宣言は、アジア太平洋地域の人々への謝罪(95年まで毎年)、「被爆者援護法」とか「ヒバクシャ」という表現を初めて使用など、「初」が多いんですね。91年は平岡さんにとっても初めての平和宣言。それまでは新聞記事で記し、伝えると言うことをしてきた平岡さんが広島市長として、平和宣言を書く。例えば、91年の宣言はどういう風にできていったんですか?

あんまりよく覚えていないけれど、有識者の意見は毎年聞いていたような気がする。何人か集まっていただいて、大学の先生とか、有識者4、5人に集まってもらってブレーンストーミングみたいなことをやってました。僕が執筆に取り掛かる前の、頭の整理です。僕自身、国際情勢のことをこう考え、今の大事なことはこんなもんだ、ということは自分の頭にはあるけど、皆さんがどう考えているのかを知りたいもんだから、そういうブレストみたいなことをやりました。

それまでは、広島平和文化センター(広島平和記念資料館などを運営している市の外郭団体)が原案を作っていたんかな。ぼつぼつ書かなきゃいけないなっていうころに、高橋昭博さん(被爆者の元平和記念資料館長。当時は広島平和文化センター事業部長)が確か、「どうされますか」と聞いてきた。僕は新聞記者出身だし、やっぱり見栄があるよね。見栄って言ったらおかしいけど、プライドというか、うん。だから「俺が書くよ」と。だけど、職員は職員で今までそうやってきたわけだから、それは書きんさいやって。

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(新聞記者時代の平岡敬さん。「旧社屋で、扇風機をかけたら原稿用紙が飛び散るから暑くてこんな格好で原稿を書いていた」=1957年8月撮影、本人提供)

8月6日のきょうは、広島市民にとって悲しく、つらい日である。そして、平和への決意を新たにする日であり、世界の人びとに記憶し続けてほしい日である。
ーー1991年8月6日平岡敬・広島市長による「平和宣言」から

僕が書いたら皆に見せるわね。こんなんどうかって。そしたら、心配したんかな。アジアへの謝罪というのね。初めは、もっときつい言葉だったかな。言葉をどう表現するのかが難しかった。

というのは、市長になって最初の年だし、その年の2月の選挙では、自民党の人も僕を押してくれたわけよ。共産党以外はほとんど全部僕を推して、選挙をやったわけよね。自民党はもちろん割れたんだけど、そんな中で自民党にも気を遣わなきゃいけないという判断があるよね。市長として。議会と市長は緊張関係にあるけど、ある程度協力というか、議会がうまく動かないと自分の思った施策がうまく展開できない。議会に反対されたらだめになる。そういうことがあるから議会のことは絶えず気になりますよ、市長としては。

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