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新橋の男

 差出人の名前を目にした瞬間、封筒を落とした。数秒間固まっていたと思う。しゃがみ込んで、封筒を拾い上げる。1年ほど前に会わなくなった男からの手紙。完全に切れたと思っていた男。携帯の番号を変えると同時に転居し、男の前から姿を消したつもりだった。
 それでも郵便物の転送期間が切れる直前、男からの手紙は届いた。この偶然は何を意味するのだろう。開封するのが怖い。きっと私を非難し、罵倒する文章が書かれているはずだから。私はそれくらい彼に負い目がある。
 でも、読まなくてはいけない。封筒に書かれた丁寧ながらも若干角張った、クセのある文字から強い圧を感じた。東京の西端から東端までなんとか届いた手紙は、何かしら意味を付加されているに違いない。思い切って封を開く。

 〈お元気ですか? いつだったか、祐未さんが居酒屋で倒れてタクシーで送った折、そのときに自宅を知りました。ふらつく祐未さんのことが心配でたまりませんでした。「ありがとう」って直接伝えられない今、もしかして転居届けを出されていれば、この手紙が祐未さんのもとへ届くかもしれないと思い書いてます。(出そうかどうしようかと迷って、だいぶ時間が経ってしまいましたが……)。その節は、映画とかミュージカルとか、知的興奮を教えてくれてありがとう。楽しい時間を過ごさせてくれてありがとう。祐未さん、体に気をつけてお仕事をがんばって幸せになってください。遠い青梅市から応援しています。ヨシ〉

 付けていたテレビの音が聞こえなくなったと思ったら、涙の粒が便箋を打つ音が聞こえてはっとした。ペンで書かれた文字が滲んでいる。「ごめんなさい」「ありがとう」。泣きながら何度もつぶやく。届くはずもないけれど、祈りのように言葉を発した。
 彼と完全に離れて1年以上経つ。当時、私は彼のことを利用していた。いくら彼が恋愛経験に乏しく、どれだけ鈍い男であっても、さよならをした前日、自分がいいように使われていたと気づいたはず。気づかないわけがない。それなのに手紙には怒りの要素が一切なかった。

 26歳になった年の春、「真波」の源氏名で働き始めた新宿のクラブでヨシと出会った。上司からひどいセクハラを受けて、10円ハゲができたり不眠症になったり月経が止まったり、挙げ句の果てには恐怖と嫌悪感で出社すらできなくなった私は、新卒で入ったコンサルティング会社を辞めた。
 しばらく引きこもって生活していたけれど、減っていく貯金残高を見つめて不安で震えた。東京でひとり暮らしをするには金がかかる。この街では息をするだけで、毎月数十万円の金が出ていく。クラブやキャバクラの採用ページを閲覧し、翌日面接に行って採用されたのがそこだった。
 潔いスキンヘッド。かなりのヘビースモーカーだからか、すっかり黄ばんでしまった清潔感のない歯。大きな目と鼻が特徴的な濃い顔。明らかに不摂生がたたって突き出た腹。右の鼻から覗いている鼻毛。ヨシは自分を49歳だといったが、それよりも老けて見える。
 ボーイから「真波さん、フリーのお客様です」と呼ばれて、ひとりで来ていたヨシの席につく。「はじめまして、真波です」と挨拶して隣に座っただけで、服や髪に染み付いたタバコ臭に鼻が曲がりそうになる。コーヒーとタバコと酒が混じり合う息の臭いもひどい。
「こんばんはぁ! 元気ですかー!」
 猪木さんかよ。ヨシは既に酔っているのか、テンションが高く、大きな声で挨拶した。この日は新宿で知り合いと飲む機会があり、飲み足りなくてクラブに寄ったのだという。名刺を手渡すと「真波さんの話、聞きたいな」と、私の目を真剣に見つめながら言った。自分の話をしたがる客が多いなか珍しいと思いながら、ヨシに聞かれるまま出身地や年齢、趣味などを話した。意外なことに反応が大きかったのは私の学歴に対してだった。
「えっ、一橋大学経済学部出身なの? すごいよ。それはすごい。頭いいね」
 体を大きく仰け反らして、驚きを大げさなくらいに表現する様がおかしい。さらに大学進学の際、九州から出てきてひとり暮らしをしていると話すと、「えらいよ。がんばってる、がんばってる」と褒める。
「社会人だし、当然ですよ」
「いや、すごいなぁ。真波さんは賢くて、がんばってて、素敵」
 1時間半延長し、フルーツ盛りまで頼んでくれて、ヨシは店を後にした。3万円を超える売上になった。
「真波ちゃん、入店1週間でやるじゃん。あの人、太いお客さんになるよ。フォロー頼んだよ」
 でっぷり太った社長は顎の肉を揺らして豪快に笑いながら、1万円札を2枚、日払いとして手渡してくれた。

 10日に1度ほどのペースで、ヨシは私を指名して来店するようになった。毎回シャンパンやフードを頼んで、1〜2時間は延長し、4〜5万円は落としてくれる。指名客のなかで最も気前のいい太客だった。
 市役所の一般職員には似つかわしくない派手な金遣いをして大丈夫か。さすがに気になったが、ヨシは独り身で母と実家で暮らしているという。ローンを完済した持ち家だから、私と違って家賃もかからない。金のかかる趣味もなく、タバコと酒くらいしか金の使いどころがないと知った。じゃあ、いいか。私のなかの悪魔が囁いて、ヨシの恋心を利用できるところまで利用することに決めた。夢を見させるのだからいいじゃないか。そう言い聞かせた。
 店で5万円使ってくれても、私に全額入ってくるわけではない。そう考えると、店に呼ぶ回数を減らして、外で会う機会を設けるのがいい。月1回、同伴ではない店外デートに誘った。行き先は銀座三越や松屋銀座。値の張るものだとセリーヌのラゲージやフェンディのプチ トゥージュール、もう少し可愛い金額感だと2〜3万円台の洋服や靴を買ってもらった。
 代わりに食事は安く、手早く済ませられるところにした。銀座7丁目の「銀座梅林 本店」で2900円のヒレカツ定食を15分くらいで食べ終わり、「行列ができてるからそろそろ出ようか」と告げるのが、「銀座で買い物デー」のお決まりのパターンだった。ヨシは食にこだわりがないから、私が行きたいという店であればどこでもついてくる。
 ヨシと一緒にいたくない。それでもヨシを惹きつけておかなければ、自分の生存が危うくなる。アンビバレントな状況にストレスを感じることもあったが、ヨシと親密な関係は続けていた。ただ、身体的接触はない。
 
 女は若いだけで多大な価値がある――ヨシと関わるずっと前から、そんな残酷な真実を知っていた。実家が貧しい私は奨学金では足りない学費と生活費を自ら賄うしかなく、大学時代からキャバクラでバイトをしていたからだ。効率よく稼ぐには水商売か風俗だが、肉体を酷使するのは嫌で前者を選んだ。
 そこそこ可愛い風の見た目を作って、直前に目薬を指して潤んだ目で臨む。男の目をじっと見つめながら、明るい笑顔で話を聞き、無邪気さやある程度の無知を演じて男を立て、ノリ良く振る舞えばいい。ときどきボディタッチをしたり、体を寄せたりすればいい。それだけで若い女は可愛がられる。家族に煙たがられていて、寂しい思いをしているオッサンや独り身のオッサン、モテないオッサンは間違いなく勘違いし、何度かは通ってくれるし、太客化することも少なくない。
 学生時代に勤めた店で、毎月必ず売上ナンバー3以内に入っていた私は、夜の世界で男、とくに中年のオッサンに気に入られる術を身に着けていた。26歳という年齢が若いかどうかはさておき、ヨシに対してもとことんそれを使ってきた。
 結果、私は金銭的なメリットを得る。ヨシにとって真波という女は、価値を持った存在なんだ、と思い上がっていた。自慢でもあった。その女に対して愛がなければ、私のために月何十万もお金を使うなんて、あり得ない。たとえそれが、どんな形の愛であったとしても。
 いつしかヨシは私に「投資している」と言うようになった。
「将来を期待してるんだよ。真波さんのこと、尊敬してるから」
 ヨシは会う度に私に言った。何を尊敬してるのと聞くと、ろれつが回らない状態ながらも、真剣に説明しようとした。自分は高卒で頭も良くないし、出世することもない。でも、真波さんなら上にいける。ヨシは毎回そんなことばかり繰り返した。私は話を聞き流しながら、好きな料理と好きな酒を注文し、飲み食いに精を出した。
 考えていたのは他の男のことや欲しいモノのこと、気に入っているホストのこと、翌週は何曜日に出勤するかといった、ヨシとは無関係なトピックだった。酔っぱらうとヨシはものすごく饒舌になるから、ラジオを前にしているかのようで楽だったのだ。

 出会って半年くらい経つころには、恋人同士のような頻度でヨシと会うようになっていた。買い物か同伴か来店かの3択で、1週間に最低1回は会う。心では望まない行為だったが、目的を達成するためと割り切ると我慢はできる。
 総額200万円くらい「投資」を受けたところで、そろそろヨシが爆発する予感があった。さすがに使わせすぎたと思う。その間、彼は私に一方的な愛情をぶつけるようになっていたけれど、一度たりとも完全には応えなかった。
 店内でもたれかかってきたり、腕や太ももに触れてきたり、肩を組んできたり、腰に手を回したりするのは不快だったけれど、いなしながらも耐えた。ただ、店外で酔って手をつながれたときは、「あ、あそこに素敵なお店が!」と言って振りほどいたし、タクシーの中で肩を組まれたら、「暑いんだけど」と払い除けた。別れ際に突然抱き締められたら、「もう、人前でそういうの無理!」と押しのけた。
 あり得ない。クラブの客で、かつ私が嫌いな喫煙者、デンタルケアを怠っているヨシは、とうの昔から恋愛対象外にいる。ファザコンの趣味はないから、親と同じくらいの年齢の男と付き合おうとも思わない。ヨシと関わっていたのと同時期に、私は同世代の男と付き合ったり、フラれたり、火遊びをしたりと、20代らしい恋愛に勤しんでいた。

 ヨシと最後に会ったのは12月、ちょうどクリスマスの週だった。ミュージカルを観にいった後、新橋で食事をして、ザ ロイヤルパークホテル東京汐留に泊まる約束をしていたのだ。「真波との初めてのお泊り」にヨシは期待したに違いない。下心あふれる妄想をしたに決まっている。
 「お多幸」でおでんを食べた後、私たちは歩いてホテルまで移動した。ヨシが手をつなごうとしてくる気配を察して、歩くペースを上げる。
「寒いから早く行こ。ほら、さっさと歩いて」
「わかったよう」
 口を尖らせて拗ねたような表情をしながらも、ヨシはおどけて言った。冷え切った空気に触れるうちに、頭が現実的な思考に切り替わる。5分後にヨシはどんな顔をするだろう。
 ホテルのフロントでヨシの名前を伝える。
「ジュニアスイートを2部屋予約しています」
 背後でヨシが「えっ」と間の抜けた声を出すのが聞こえた。
「べっ……別々なの?」
 振り向いて笑顔で頷く。
「うん、だってヨシ、いびきかくじゃん。自分のいびき、知ってる? けっこううるさいんだよ。一緒に寝るなんて無理だよ、あれじゃあ」
 ヨシのいびきがうるさいのは事実だ。飲みすぎて酔っぱらい、閉店間際の店で眠りかけたヨシは、大きないびきをかいていた。
 カギを2つ受け取って、1つをヨシに手渡す。
「おやすみ。今日もありがとう。また朝にね」
 ヨシはその場に立ち尽くしていた。悲しみと不可解さ、納得のいかなさが張り付いた顔のまま。

 翌朝8時半に目覚め、サイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばすと、メールが来ていた。メールを寄越すのは地元の母親かヨシのどちらかだ。ふたりともLINEを使わない。7時台に届いていたヨシのメールを開く。
 〈真波さん、ごめんなさい。僕は先に帰ります。ゆっくりしていってください。ヨシ〉
 さすがに「この展開はない……」と感じて、気持ちが折れたのだろう。絶対に真波と性交渉に及ぶと確信して、期待値が100%を超えていたにもかかわらず、まさかの別の部屋。青天の霹靂以外の何者でもない。
 厳密に言うと騙してはいない。「食後、ホテルに泊まって、朝食を一緒に食べよう」と提案し、ヨシからホテルの予約を頼まれたから、その通りにしただけだ。「1部屋とってね」と言われていないから、1部屋ではなく2部屋とった。だから私は悪くない。無理やりそう思い込んだ。以来、ヨシから連絡は来なくなった。
 私の「エース」として、クラブでの成績に貢献してくれたヨシ。売上がピンチなときも、お願いすれば来店し、数万円単位で落としてくれた。ヨシがいたから、チンケなプライドを保てたこともあった。
 一緒にいることで互いに利益があった。彼は彼で自分より20歳以上も離れた若い女をいろいろな場所へ連れ回せるし、私は私で金銭的なメリットを享受していた。ただ、心の矢印の向きが無茶苦茶だった。私はいつだってヨシではない別の男を見ていた。ヨシは矢印の向きを修正しようと、彼なりに奮闘していたのだろうか。
 ヨシほど私を好きでいた男なんて他にいないだろう。恋人以上に愛されていたような気もする。たとえそれが受け取りを拒否したい愛であったとしても、愛であることに変わりはない。「真波さんといることが、俺の生きがいなんだよ」。ヨシは何度も口にした。
 クレジットカードで数十万円支払った後に行った大衆居酒屋で280円のビールを飲みながら、真波さんが俺に生きる意味や働く意味を与えている、と私の耳元に口を近づけて言った。タバコとビールの混じった臭い息を嗅ぎたくなくて、私は「もう、近いから!」と笑いながら、ヨシを左手で押しのけていた。

 翌年3月にクラブをやめて、昼の仕事に戻った。精神状態が回復したから、そろそろ昼の世界で普通に働こうと思ったのだ。コンサルティング会社に転職して10カ月ほど。ここ1週間ほど常駐先で面倒事に巻き込まれ、毎日ボロボロになって帰宅する日々を送っていた。
「夜、付き合ってくれないかな」
「明日、食事に行こうよ」
「祐未ちゃん、いつならあいてるの?」
 偉いオッサンからしつこく誘われるのを断り続けていたら、「もう君の会社は切るから」と脅されたのだ。自社の上司に報告を入れつつ、「客」であるオッサンをなだめすかす役回りを引き受けるという、なんの生産性もない活動に心身が摩耗しそうだった。
「君みたいなコンサルタントなんか掃いて捨てるほどいる」
「いくらでも替わりがいる職業だよ」
「頭がいいと思ってたらそうでもないね」
「もう少し立ち回り方を考えたほうがいいよ」
「ちょっと見た目がいいからって、調子に乗らないほうがいいんじゃない? すぐおばさんになるんだし」
 対面やチャット、メールでオッサンが放つ悪意のある言葉にふれる度に、心のなかで暴言を吐いて自らの心を落ち着けた。
 若い女だからって舐めんじゃねえよ。いい加減にしろよジジイ。てめえみたいなジジイがいるから女が働きづらいんだよボケ。黙れアホが。

 ヨシからの手紙を3度読み返すうちに、不思議と心が落ち着いていた。手紙を持って何分見つめていただろうか。涙の跡が乾き始めていた。
 私の存在を認めてくれた人がいる。その事実を思い出し、再確認しただけで、ほっとする気持ちで満たされた。まだ、だいじょうぶ。逃げちゃだめ。遠くで見守ってくれる人がいる。さんざんひどい仕打ちをしたのに、一方的に愛を送ってくれた男。もう二度と会うつもりはないし、会いたいとも思わないけれど、ヨシの存在に救われる思いがした。自分勝手でごめんなさい。でも、私の現実に必要なのはヨシじゃないし、ヨシも私じゃない別の人を見つけてほしい。
 誰かを元気づけたり、誰かの生きる源になっていたり、誰かに影響を与えられたりすることで、自分の存在価値を実感できて、ほんの少しでも楽になれる。去っていったヨシが教えてくれたのは尊いことで、だからこそ私はヨシのことを一生忘れないだろう。届かないけれど、それがヨシへの贖罪になる。そう信じたかった。

【作中に登場した店】

銀座梅林 本店
https://retty.me/area/PRE13/ARE2/SUB201/100000003809/

お多幸 銀座八丁目店
https://retty.me/area/PRE13/ARE2/SUB201/100000005815/


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