トラットリア イソダ・磯田浩介シェフの証言 【小説】どの顔もあの女#29

 人形町で「トラットリア イソダ」というイタリア料理店をやっています。以前一度、高梨さんといらっしゃいましたよね。ありがとうございます。
 高梨さんは常連のお客様でした。初回はおひとりで、その後は妹さんとふたりで来られて、それからは男性の方と来られていました。
 高梨さんはうちの近所に住まれていて、それもあってうちをよく使ってくださいました。引っ越したての頃、散歩をしていたときに、偶然うちを見つけてくださり、それ以来のご縁ですね。
 妹さん以外の女性とお越しになったことはないです。男性ですか? 毎回違う方といらしていました。予約は必ず高梨さんがしていましたね。

 月に一度くらいの来店頻度でした。それぞれの男性との関係はわかりませんが、単なる男友達のように見えるお相手もいれば、そうではなさそうなお相手もいました。ずっと敬語で話しているお相手は仕事関係者だとわかるんですけど。
 うちの店ではほとんどお酒を飲まない高梨さんが、こちらが驚くくらいたくさん飲んだ日のことは、特によく覚えています。その日は19時半に予約されていて、高梨さんは時間通りに来られたのですが、「(お相手が)45分くらい遅れる」とおっしゃっていて。
 「乗り換えで間違えて、逆方向の電車に乗っちゃったみたいです。でも、私お腹空いてるんですよね。前菜盛り合わせを軽めにもらえますか。一緒にスパークリングワインを」とオーダーを受けたので、その通りにお出ししました。
 お相手が到着したのは20時半を回る少し前です。本当にきっかり45分後に来られました。50代くらいで、がっちりした体格の、いかにもスポーツをしている風貌の男性でしたね。年齢は重ねているけど、若々しい印象を受けました。男性から見てカッコいい男性というか。
 男性が来てから白ワインと赤ワインを1本ずつ空けていたので、いつもはほぼソフトドリンクしか飲まない高梨さんにしては珍しいなと思ったんですよね。

 ご覧の通り、小さい店です。私ひとりで目が行き届くくらいの席数ですし、満席になるとてんやわんやになるので、いつもお客様の数を調整しています。
 その日は他にお客様が2組いたのですが、21時過ぎには帰られて、店内には高梨さんとその男性と私だけになっていました。だから、会話が時々聞こえてくるんですよね。
 「また旅行したい」「今度は関西行こうよ」「前に言ってたあのバーに連れてってほしい」というような、カップルみたいな会話でした。
 でも、雰囲気が一般のカップルじゃないんですよね。不倫っぽいというか。おふたりの年齢差がそう感じさせたのかもしれません。
 おふたりが店を出たのは22時を過ぎたくらいでした。男性はあまり酔っていなさそうでしたが、高梨さんはいつもよりテンションが高めでした。酔っていたのだと思います。そりゃ最初にスパークリングワインも飲んでいますし、赤白1本ずつ空けていますから、当然なんですけど。

 高梨さんってどこか不思議なところがありました。その男性以外にも、ただの友達ではなさそうな男性が複数人いましたし。きちんとしていて、清楚な感じなのに、一方でギラギラした部分を持っているというか。目力が強いせいなのかな……何か獲物を狙う目をしているときがありました。
 僕も店で会話をする中で仲良くなり、連絡先を交換していて、一度このあたりで食事に行ったことがあるんですよ。はい、僕からお誘いしました。
 食事後に「うちでお茶でも飲んでいきます?」って誘われたんです。「え、誘われてる?」とドキッとしましたし、この言葉を間に受けていいのか悩みましたが、理性で自分をコントロールできる年齢ですから、おうちにおじゃましたんですね。

 彼女の自宅に上がったのは、22時くらいだったと思います。そしたら30分ほど経ってインターホンが鳴って……誰が来たと思います? 落語家の川端辰乃助さんですよ。もう、ぽかんとしました。私、落語ファンで辰乃助さんの落語もよく聴いているので。
 ただ、既婚者の辰乃助さんが22時半過ぎに、独身女性の家に立ち寄る、というのも衝撃ですよね。しかも、高梨さんの家に。野菜多めなご飯を食べたい、という理由で立ち寄ったそうで。
 高梨さんは「磯田シェフって落語が好きなんだよ。辰乃助さんの落語も大好きで、よく聴いてるんだって。ふたりでしばしお話しタイムね」と言って、私と辰乃助さんを座らせて、料理を作り始めていました。
 奇妙な感じでしたよ。高梨さんとただならぬ関係だと思われる落語家と、彼にとっては「この男、誰?」的な私が向かい合って話していて、その背後には料理をしている高梨さんがいて。私は辰乃助さんのご飯が完成したタイミングで、おうちを後にしました。

 辰乃助さんの不倫報道が出たのは、それからしばらくしてですよね。僕はまさにその「現場」にいたので、記事を読んでも驚くことはなかったですけど。ただ、変わった感覚の持ち主だと思います、高梨さんは。
 あの状況で普通、私を家に招き入れますか? 辰乃助さんが来るってわかっているのに。そのあたりの感覚……なんて言えばいいんですかね、男女関係に対して持つ感覚が一般的ではなかったとは言えますよね。
 でも、事件に巻き込まれるほど悪いことは、していないと思うんです。確かに、不倫はしていたかもしれませんが。つらいですよね、うちの大事なお客様とこんな形で関わりが切れてしまうなんて。


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