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「その子さんと過ごす時間はご褒美」と言った彼。

 「キックボクシングに行きたいから(福岡に)帰る予定を早めることにした」「ここ(大阪)にいるとキック行けなくて、運動不足になるのがいや」
 先日私は唐突にそう切り出した。大阪で暮らすパートナーの家で毎月10日ほど過ごす生活をしてきたが、予定変更宣言は初めてだ。
 彼はえっと驚いた様子で「○日に帰るって言ってたのに」「○日は新大阪まで一緒に行くって話してたのに。一緒にやりたいことがあったのにな」と悲しげに言う。それから翌朝まで言葉少なになって、自分の殻に閉じこもってしまった。
 翌昼「その子さん、話がある」と言われた。もちろん前夜のやりとりに関わる話だ。彼は言葉を慎重に選んでいるように思えた。
「その子さんと毎月10日間一緒に暮らす時間は、僕にとってはご褒美みたいなものなんだ。毎月ボーナスをもらっている感覚。だから予定が急に変わるってなるとびっくりするし、動揺してしまう。今回はその子さんが言ったようにしてね。今は大阪より福岡の方が楽しくて、福岡にいたいのも分かってる。でも、今度からは早めに言ってほしいんだ」
 こちらとしては「滞在日数が2〜3日変わるだけ」という安易な気持ちだったけれど、彼にとっては今月一緒にいられる日が突然減ることは、ものすごく悲しいことだったらしい。ショックすぎてどうにも眠れなくて、深夜散歩に出て行ってコンビニを2軒はしごしたという。結構な距離のある2軒である。夜中に出かけていったのは知っていたけれど、私はすっかり寝入っていて、彼がいつの間に帰ってきたのかは知らなかった。そういうことねと合点がいった。
 私は私で「いや」という言い方をしたことを謝った。いやな言い方をしてしまった、と。大阪にいるのがいやなのではなく、キックできないフラストレーションが溜まっていやだったけれど、いやという強い言葉を使う必要はなかった、いやな気持ちにさせてごめんねと。そして、私が大阪であなたと過ごす時間は大事だし、楽しいと思ってるのは忘れないでねと(おい自分、ここで何回「いや」って言ってるん!)。
 そんなやりとりがあり、引き止められたわけではないけれど、結局私は当初の予定通り大阪で10日間過ごした。私と過ごす日々を「ご褒美」だとか「ボーナス」だとか本気で言ってくれる存在は世界に何人いるだろう。遊びではなく、真剣な気持ちで言うのは彼くらいではないだろうか。そんな人を置いていくのは忍びないし、よくよく考えたら2〜3日巻くと一緒にいられる時間がかなり少なくなると気づいたからだ。
 それに、キックは適度なスペースさえあればどこでもできる(ジムと練習のメニューや質は変わるけど)。大阪でも1R3分を計測してくれるYouTubeをつけて、シャドー3Rをした日があった。そして、いよいよ彼がキックのコーチ化した。

 まず、当直明けに楽しい企画を用意してくれたのだ。Uber Eatsでモスバーガーを注文し、近所の大きな公園に行ってピクニック感覚でそれを食べ、ミット打ちを数Rやるという素敵な内容。
 前日に「モスのメニュー見て食べたいものを選んでおいてね」とメッセージが来た。メニューを見ているとワクワクしたし、公園まで散歩して外でハンバーガーを頬張ることも遠足気分でいいなと思った。少しピリ辛なバーガーを食べた後、大人ふたりはミット打ちに真剣に取り組んだ。汗だくになる。楽しかった。
 その後も晴れたら毎晩のように同じ公園に行き、彼がミットを持ってくれて、私が打ち込みをする日が続いた。
 私たちは互いが「悲しい気持ちになった」ことをベースに話し合いができる。ならすと4ヶ月に一度くらい、なんらかの話をしてきたと思う。
 「◯◯くん、ちょっと話そうか」と言っても怖がられない(過去の経験上、いやそうな顔をしたり、不安げな表情をしたりする人、つまり怖がる人が多かった)。そんな関係性は貴重だなあと思う。
 普段は「私たちって、何話してんだろうね……」「覚えてないね……」というくらい、真の雑談しかしていないけれど、いざというとき、ふたりの関係性をより良く構築するための話し合いは自然とできるのだ。私にとって彼の魅力やいいところはたくさんあるけれど、そういうところも、彼を大事な人だなと思う理由のひとつ。
 5月も大阪で10日間ほど過ごす。夜、公園でキックをしている大人ふたりがいたら、それは私たちかもしれない。



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