相手の唯一無二になるの難しいけど、「この人じゃないとヤダ」と思い、思われるパートナーシップは諦めてない。

夜に1〜2杯のワインを飲むのが習慣化している。誰とでもない、家でひとりきりで。昨夜も友達とごはんを食べて、用事を済ませて帰宅したあと、白ワインを1杯、勢いよく飲み干した。1本じゃないよ、1杯よ。だから心配しないでください。なんていうか、お酒を飲まないと締まりが悪い感じのシーズン。

アルコールのおかげで身体が温まって、ふわふわといい気持ちになったあと、こんな投稿をした。単なる願望をつぶやいただけなのに、(自分としては)思いがけない数のいいね!が付いていた。

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3時間前。浅草橋「水新菜館」。予想を超える量で提供された麻婆豆腐を、腹七分目の状態で勢いよく頬張りながら、友人男性から「お別れしたのに忘れられない、今でもよりを戻したくてしょうがない女性」の話を聞いていて、彼にとってかけがえがないというか、唯一無二の存在というか、終わった元恋人から想われ続ける相手のことを想像した。

彼にとって、元恋人は「あなたじゃなきゃダメ」な相手なんだと思った。

「いいなあ。そんなふうに思われたこと、人生で一度もないよ」

彼の話を聞きながら、自分の人生を振り返って涙が出そうになった。でも、押し留めた。ここで泣いても文脈的におかしいし、慰められるのも筋が違う。だから、美味い中華を食べることに専念した。食べ物はひとときの安らぎをくれる。

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「ソノコ“で”いい」

深く関わった人々から、そんなふうに思われる人生だった。直截的な言葉を投げかけられたわけじゃない。言葉を大事にしない/言葉選びに気遣いが感じられない人々とも関わってきたけれど、付き合うタイミングでそんな冷たい言葉をかけられる機会はない。

ただ、振り返ってみれば、結果的に「ソノコ“で”いい」なのだ。「ソノコ“が”いい」「ソノコ“じゃないとダメ”だ」と求められた経験は、残念ながら、皆無。

たまたま出会った。会っているうちに親しくなった。どこか手ごろな相手。密に関わり始める。とりあえず付き合う or 結婚する。それ以上でもそれ以下でもない。

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友人男性は、その展開が誰にも起きるかのように言った。

「別れた相手から、そんな(またあなたと戻りたい、的な)連絡が来たこと、あるでしょう?」

「いや、一回もない」

答えた後、私は苦笑いを浮かべていたと思う。男友達は「ほんまに?」みたいな表情をしていたけれど、「唯一無二の存在になったことないのよ、私は。あ〜、なんか悲しいね〜」と自虐して、ひとり回想に耽った。

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特別なものを持っているわけではない。何かに秀でているわけではない。いつも面白いことを言えるわけではない。身体という器はあるし、食べて出す生き物だけど、中身ってあるのかな。どこか中途半端。

恋愛・結婚・性愛シーンにおける、自分という存在の「代替可能」感を思うと悲しみと絶望で満ちていく。相手にとって「この人じゃないとダメだ」というヒキを作れぬまま、年月の差はあれど、細い糸はいつしかぷつんと切れる。

向き合った相手に、ひとつたりとも爪痕を刻むことなく、記憶に残ることなく、自分は過ぎ去っていく。この世に存在していないかのように。透明人間みたい。そんなふうに思った。

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遠方に住む、私を慕ってくれている知人男性が、「うちの奥さん、面白いんですよ。だから、もう◯年一緒にいるけど飽きないんです。奥さんと出会えて僕は本当にラッキーでした。奥さんと出会えなかったら、僕は今頃どうしていたんだろう」と話すのを聞いたときも、「いいなあ。うらやましいな〜」と笑顔で言いながら、心では涙を流していた。

「どうすれば、そんなふうに思ってもらえるんだろう。私もひとりの人間として愛されたいし、必要とされたい」

そんな気持ちが募った。

自分という「コンテンツ」に魅力がないからだ。決定的に飛び出たところもなければ、凹んだところもない。死ぬほど頑張ったこともない。人生の「谷」がないから人としての深みができないままのか。

考えても暗くなるだけ。これを書いている今も、涙が出てきた。映画『糸』を観たときレベルに、涙を大量生産している。

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ここまで「相手にこう思われたい」と、自分視点から感覚を書き連ねてきたけれど、果たして自分はどうなのか。

私は「この人“が”いい」「この人“じゃないとダメ”だ」と思ったことはある。でも、あくまで全体ではなく、パーツしか見ていない。

20代前半の頃は「この人と終わると、当分、次の相手はできない。だから手放したくない」的な、独りよがりな執着。

20代半ば頃は相手の地位や、相手とパートナーシップを築いている自分のステータスを毀損したくない、といった、これまた自己中心的な考えに基づく。

近頃は、そういう上っ面なモノの見方は消えた。代わりに、顔・身体が好みだとか、性的な相性がいいとか、感覚や本能に基づいた部分でのみ、相手に対しオンリーワンを感じるようになっている。

二度ほど「けっこう年下の子と付き合ってみたい」「付き合うと◯◯界の情報を得られるメリットがある」という邪な理由を、「この人“が”いい」に結び付けて恋人になったことがある。でも、どちらも長くは続かなかった。そのときは、本能的な欲望も愛もどこかにすっ飛んでいた。

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冷静になってきたし、涙の跡も乾いてきた。

私は自分が長く生きないことをわかっている。でも、死ぬまでに一度は、「ソノコ“が”いい」「ソノコ“じゃないとダメ”だ」と思われて、同時に自分も「◯◯“が”いい」「◯◯“じゃないとダメ”だ」と思う経験をすることを諦めてはいない。

自分の本質を根本から変えるのは難しい。人間のその人らしさというのは、幼少期に形成されているわけで、今さら無理やり変えようなんて思わない。

ただ、難しいことと簡単なこと、チャレンジしたことのないことと経験済みのことが目の前にあれば、どちらの場合でも前者を選択して、自分の中にネタを積み上げていく姿勢は変えない。それを続けていれば、少しは面白味のある人間になれるでしょう。そこだけは期待している。







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