見出し画像

渋谷の男

 「マスター、ちょっと行ってきます。連れが迷いそうなので」
 渋谷・宇田川町の細い路地裏に佇むワインバー「bar bossa」の店主に告げて店外に出る。エアコンの効いた店内とは別世界の熱帯夜が広がる。不快なレヴェルの熱気が肌にまとわりつく。バー横の門を開けて小さな通りに出ると、浴衣姿の大男がこちらに歩いてくる。
 190センチを超える長身、髷を結った姿は、一般社会では目立ちすぎる。渋谷という軟派な街で硬派な彼は浮いている。でも、夜の奥渋谷まで足を伸ばせば、暗闇にすっと溶け込んで、馴染まないこともない。Sとの距離が縮まるにつれ、鬢つけ油の甘い香りが匂い立った。「S」と呼びかけて軽く抱きつくも、両手が背中でくっつかない。体の厚みが常人離れした職業の人だった、と再確認する。
 Sがやわらかに微笑む。22歳の若者はこの日も爽やかだった。キスをせがまれたから、する。名古屋場所で5勝以上したら、再会したときにキスする、というSの提案を受ける約束になっていた。
「お酒、もう飲まないよね?」
「うん。飲みすぎたから。あ、でも、さっきLINEで『季節のフルーツカクテル飲んでる』って、いづみさん言ってたよね。俺、それなら飲みたい」
 後援者が集まる会で、酒をしこたま飲んだというSは、突き出た腹を右手でさする。酒だけでなく食べ物も大量に食べたという。

 前にSと会ったときは、居酒屋とファミレスの二択しかない場所で、Sはファミレスを希望した。後援者との付き合いの後だったから、口直しに甘いものを食べたい、と言った。
 入店した途端、客の視線が一斉にSに注がれたのを覚えている。それもそうだ。力士が普通にファミレスに現れたのだから。
 日本人でも大相撲を生で見たことがない人は少なくない。それは両国国技館に足を踏み入れたことがないことをも意味する。本場所中の国技館は当然だが、相撲部屋が集中する両国では力士を目撃するのは珍しくない。それでも力士は外見からどうしても目立ってしまうため、個室のある店を使うことが多い。ただでさえ日常生活で目にする機会がない力士に、客たちの目が釘付けになるのも無理はなかった。
「個室じゃなくて悪いね」
 ドリンクバーで取ってきた烏龍茶をちびちびと飲むSに言った。
「別にいいっすよ。いづみさんと一緒にいれたら」
 自分で放った言葉に照れているのか、頬を赤らめた。高校卒業後すぐに角界入したSは、自称「女の子とちゃんと付き合ったことがない」キャラだが、それはどうやら嘘ではなかったと後になってわかることになる。

 Sとの出会いは相撲好きな知人女性に誘われて参加した、本場所千秋楽の晩に開催される相撲部屋の祝賀パーティだった。
 各場所の最終日、どこの相撲部屋も後援者を招いて盛大な会を開催する。後援者、連れともにご祝儀はひとり1〜2万円程度。力士と会話したり写真撮影したりできるだけでなく、それなりにゴージャスな料理が提供されたり、豪華商品が当たる抽選会が開催されたりと、豊富なコンテンツがある。
 東陽町にあるホテルイースト21の大宴会場で開催されたZ部屋のパーティには、部屋所属の力士が総勢30人ほど参加していた。小結1人と前頭2人の関取を擁するZ部屋には、いきのいい若い幕下力士が大勢いる。中学卒業後に入門した「叩き上げ」組の力士だと二十歳前後、高校卒業後に入門した力士だと20代前半になったころか。十数人が幕下下位〜上位までひしめき合っている。稽古がとくに厳しいことで知られるZ部屋には、次世代の関取候補がたくさんいて、全員が家族でありライバルでもある。

 着席形式のパーティでは数十もの円卓を力士が順に回る。「Z部屋 五月場所 千秋楽打ち上げパーティ」と書かれたステージ吊り看板を背に来賓が挨拶するのを聞いていた。ステージ付近は来賓用のVIP席で、社交界の大物や人気女優、元プロアスリートなどの有名人らが集められている。そのあたりは関取や親方を中心に「接客」に時間をかける。
 私たちの円卓は部屋の端に位置していることもあって、力士がなかなかやってこない。力士が30人超いたとしても、各卓に1人ずつ着くわけではなく、円卓の数に対して力士の数が足りていなかった。
「まあ、そのうち来るよ。それまでにごはん食べとこ」
 知人はターンテーブルを回して料理を美しく盛り付けている。
「はーい。今のうちにね」
 近況を話しながら食事をしていると、「失礼します」と左から声がかかる。穏やかな、澄んだ目をした若い力士が、私の左の席に腰を下ろした。キリリとした太めな眉と奥二重気味な優しい目。武士っぽい。
 この子、『相撲名鑑』で見たことある……あの子? 自分のなかで情報が紐付いた。先場所の取り組みを見て、「絶対強くなる」とか「おしりから太ももにかけての筋肉がすごい」とか、名鑑の空きスペースにメモしたのを思い出した。名鑑の写真と印象が違うからわからなかった。
「体格いいですね。今何センチ? 何キロ?」
「191センチで、140キロっす」
「おっきい。相撲する前は何のスポーツしてたんですか?」
「柔道っす」
 力士は口数が少ない傾向にあると聞いていたが、案の定話が広がらなくて苦笑しそうになる。しばらく質問タイムを続けていると、知人が横から口を挟んだ。
「一緒に写真撮ってくれない?」
 知人とS、私とS、3人の3パターンの写真を撮り、そうこうするうちにSは別の卓へ移動していった。
「真面目そうな子だよね。あの子は伸びると思うよ。何十年も相撲見てるとね、わかる」
 東陽町駅まで歩きながら、50代の知人は自信満々に話す。
「私、まだ2年くらいしか見てないですけど、なんとなくわかります。体格がいいし、取り組みのときの目がいいですよね。勝負師の目になるっていうか。変わるんですよ、一瞬で」

 先に電車を降りた知人を見送ってからスマホを開く。Sのツイッターを探してフォローした。数分後にフォローバックの通知とDMが来て目を見張る。
「今日はありがとうございました。さっき撮った写真、僕にもいただけませんか?」
 スマホのカメラロールで写真を確認すると、微妙にブレていて、顔がぐにゃっとなっている。写真下手な知人にコラッと言いたくなった。
「ごめんなさい。撮ってもらった写真、ブレてました……。また撮りましょう」
 Sも少し気落ちしているようだったが、やりとりはDMからLINEに移行し、1時間ほど続いた。しきりに「いづみさんに一目惚れしたんです」「素敵な人だと思った」「喋れなかったのは緊張してたからなんです」と、こちらを持ち上げまくるSに戸惑うも、悪い気はしない。あのとき、会話は全然弾まなかったんだけど。
「失礼ですけど、結婚されてますか?」
 不意に投げかけられた質問に、スマホを打つ手が一瞬止まる。
「今はしてないよ。1年前、離婚したの」
 すぐに返事が来た。
「なんか、大人っすね。でも、結婚してないって聞いて嬉しいっす」
 あなたより一回り年上だから、そりゃいい大人ですよと心の中でつぶやく。Sに自分は34歳だと伝えると、「全然気にならないっす、自分年上の方が好きなので」と返ってきた。
 Sは幕下中位にいて、まだ関取ではない。おじさんおばさんにはチヤホヤされても、若い女性からキャーキャー言われるほどではない。女性との出会いもそう多くはないだろう。
 だからこそ、Sに興味を示した私に夢中になっている。ただ、それだけのこと。一般社会で35年近くも生きていれば、自分の実力は十分すぎるほどわかる。狙った相手を仕留める能力も美貌も持ち合わせておらず、自分にとって興味のない者からは興味を持たれる……といった平凡な人生を送ってきたから、Sが自分に夢中になるのを冷静な目でとらえていた。

 カウンター席で隣に座るSは少し眠そうだし、スペースが足りないように見える。お尻を乗せきれていないのではと心配になる。
「狭いよね?」
「狭くないよ」
「狭そうだけど……。眠いよね?」
「眠くないよ」
 嘘つけ、とツッコむと、今日は深夜3時に部屋に帰ったという。
「関取が飲みにいくのに付き合ってて。女の人がいる店でシャンパンとかウイスキーとかいろいろ飲んで。大変だったよ」
 Sが付き人として付いている関取は今でこそ番付を下げているが、最高位関脇までいった実力者。豪快な飲みっぷりでも知られている。
「大変だね」
「大変だよ〜」
 子犬のような目で見つめてくる大きな体をしたS。そのギャップを間近で見て、何度心をぎゅうんと掴まれたことだろう。
 Sを迎えに出る前にオーダーしておいた、りんごをベースにしたカクテルをマスターがSの前にそっと置いた。
「ニュージーランド産のJAZZりんごっていうのを使ってるんです」
 体格の良すぎるSがカクテルグラスを持ち上げると、グラスの華奢さが際立って妙に面白かった。Sの喉仏が上下するのを見つめた。
「うまい。めちゃくちゃうまいっす。飲みすぎそう」

 Sとはなかなか会えない。付き人をしていることもあるし、部屋の稽古だけでなく自主的にトレーニングもしているし、本場所開催期間以外は巡業や合宿などで東京にいないからだ。1年の半分も東京で過ごすことはないだろう。
 だからコミュニケーションはもっぱらLINEになる。LINEが私たちをつなぐ綱。すぐにぷつっと切れてしまうような線ではなく、頑丈な綱なのだと思いたかった。

 23時になろうとしていた。そろそろ戻らないと、とSに声をかける。きちんと休息をとるのも力士の仕事。連れ回すわけにはいかない。
「まだ帰りたくない。まだ一緒にいたい」
 Sは私を困らせようとする。困る顔を見るのが楽しいらしい。
「帰るよ。今日あなた眠そうだもん」
 支払いを済ませてマスターに挨拶をして、道玄坂二丁目交差点のほうへ歩く。Sが一緒に帰ろうと言うのでタクシーに同乗した。Z部屋は両国にあり、私の部屋は水天宮にある。箱崎ジャンクションを過ぎたあたりで下ろしてもらうことにする。
 夜の首都高を走るクルマに乗るのは好きだ。あたたかな光がぽつぽつと灯る大規模マンション、闇に溶けこもうとしている小さなアパート、夜になっても不自然なくらい煌々としたオフィスビル……車窓には人が一人ひとり生活していることを伝える点があふれている。
 Sが私の右手に左手を重ねてきた。分厚いグローブのような手。信じられないくらい太い指。手のひらを裏返して指を絡めた。
「いづみさん。俺、1年以内に十両に上がるから」
 オレンジ色の道路照明がSの目元を照らしている。土俵上でしか見せない雄々しい目つきに一瞬だけ変わる。
「うん。応援してる。Sは強いから絶対なれる」
 私の手を握る力をSは一瞬ゆるめ、その後ぐっと強く握った。

 2年が経つころ、Sは十両に昇進した。力士の誰もが目指す関取という地位を見事手にした。入門者の誰もが到達できる場所ではない。全力士の1割以下の限られた人間しか進めない場所。厳しすぎる椅子取りゲームでSは勝利した。「1年以内に」という約束は叶わなかったけれど、Sは思いを達成していた。
「おめでとう、S。あなた、えらいよ」
 Sとの関係はわずか7カ月ほどで幕を下ろしていたから、ネットニュースで一報を知った。Sとの綱は自ら切断した。1年近く低迷期を過ごしていたころのSは、悪い意味で私に依存していて、それはSの長い相撲人生に悪影響を与えると考えたから、泣く泣く身を引くことにしたのだった。
「しばらく距離を置こう。そのほうがいい。あなたのために言ってるの」
 そう伝えるとSは泣いた。
「私は力士としてのSが好き。私が一緒にいることでSをダメにしたくないから離れたい」
 聞き分けのないSにそんなLINEを送ったのが最後だった。

 スマホにLINEのプッシュ通知が来た。
「いづみさん、俺、十両上がったよ」
 通話ボタンをタップした。

【作中に登場した店】

bar bossa
https://retty.me/area/PRE13/ARE8/SUB802/100000008092/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?