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その傷は何週間も消えないけど—35過ぎて私の思うこと。

 左手首内側にできた縦横5ミリほどのひっかき傷が、こじんまりした打ち身ふうに姿を変えて久しい。台所か洗面所で何か作業をしていたとき、雑な動作をした流れで、思いがけない場所に爪を立ててしまったのだ。3週間くらい前になる。傷ついた直後に血が滲んできて、1日だけ絆創膏を貼った。その後は剥き出しのまま過ごしている。石鹸を手にとってこすり合わせる際、毎度目に入ってくるけれども、傷あとが薄くなったり、消えたりする気配はない。

 この手の「些細な傷だと思っていたのに……」事例は枚挙にいとまがない。正確に言うならば、年齢を重ねるにつれて「枚挙にいとまがなくなってきた」。つまりは、些細な傷は些細ではなかった、ということ。

 以前だったら、軽度な傷は2〜3日くらい、少々重ためな傷でも1〜2週間あれば、皮膚は再生していたと記憶している。靴ずれや献血時に注射針を刺した跡、いつどこでカットしたのか思い当たるふしがない細く頼りない線すらも、傷の顔をしてしぶとく残っている。

 あるとき、包丁で親指をぐさりと刺してしまった。いつものように料理をしていたら、不注意で指を負傷したのだ。血が止まらなくなり、タオルで止血して指を心臓より高く上げて、寝室に敷いたヨガマットの上にしばらく横たわった。その日は血が止まったものの、翌日何かの拍子で傷が広がって流血し始めたので、移動先であった旭川の形成外科で縫合してもらった。その刺し傷も2ヶ月くらい、存在感を持っていた。「私、消えないからね」と主張しているような。

 「再生」には時間を要する——。私はこの現実を冷静に受け止めることにした。だから、どうする? 答えはシンプルで、傷を作らない生活をできる限り試みること。皮膚が元通りになるのに、決して短くはない月日がかかるのだから、程度の差はあれとにかく負傷しないに越したことはない。

 傷をこしらえる度に「注意深く動こう」「油断してはいけない」と心に決めるのだけど、しばらくすると気持ちが緩んでくる。また傷ができそうになった“すれすれ”のタイミングに、はたと静止しては自分を諫める——これを繰り返している自分が情けない。

 ただ、考え方を変えることもできる。傷は自分にとって最も身近な「注意喚起担当者」であるとも。常時ぴんと気を張り続けることは難しいし、疲労感でいっぱいになって、別の怪我をしてしまいそうだ。

 「もっと大きな危険に遭遇するかもよ?」と警告してくれる小さな傷ができたときや、危うく傷ができそうになるとき、言い換えると“負傷未遂”のときは、それらの瞬間に感謝しつつ、「慎重であろう」と意識づける機会としたい。

このコラムは最近読んで感銘を受けた『40過ぎてパリジェンヌの思うこと』の日本版を作りたいと思い立って書き始めたシリーズものです。


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