あなたが「それ」をゴミと呼んだ時からそれは「ゴミ」になる。
「当たり前」は「当たり前」じゃない。
どこからこの気づきがはじまったのか。今の都市生活の「当たり前」は実は全然当たり前じゃないのです。ただ、「当たり前だと思わされているだけ」。いつのころからか、まるで夢から覚めるみたいに社会が推奨する「文化的都市生活」から少しずつ距離をとるようになりました。
だからこれは、これこれこういうものを所有して、こういう電化製品をもちこういう生活をすれば「文化的」だ、というアナウンスからの脱却の記録でもあるのです。
■暖かいものが上等という考えは、思い込みでした。
えと、異論のある方が多いと思われますが、私、告白すると「アツアツのご飯」が苦手です。しっとりした冷ごはんが好き。これは、電子レンジのない時代に育ったせいかと思われますが。ガス釜で炊いて、冷蔵庫に入れずにそのまま時間のたった冷ごはん、これが最高に美味しかった。
炊き立てでなくてもいい。温め直さなくてもいい。(「アツアツだと口いっぱい頬張れないもん」ウチの愚弟はそう申しました。私も完全同意でございます。)
そう言語化した後だと、いざ電子レンジを買い替えようというときに、電子レンジなくても大丈夫じゃね?となったわけです。電子レンジが占めていた大きい空間が空くとキッチンはとても広くシンプルになりました。
不便だろうって?そうでもないんですよ、これが。不便どころか。なんと美味しい冷ごはんを食べたいあまりに、なんと土鍋でご飯を炊くようになって炊飯ジャーも必要なくなってしまいました!wwどんどん未開人になっていく?いやいやいや。不思議なことに、こういう生活を始めてからは気持ちにとても余裕ができてきたように思うのです。
レンジでないと調理できないものは買わないし、常備菜も温めなくてもよいものを作ります。熱いのはお味噌汁だけ、でも全く問題なく美味しいメニューがつくれます。たとえば、ある日のうちの献立はこんな感じです。
春菊のおひたし・冷凍がんもどきとタケノコの煮つけ・高野豆腐ひき肉でつくった餃子・わかめのお味噌汁、そして冷ごはん。
私は調理がたまたま好きなので自炊を極めてますけど、東南アジア諸国での生活がそうであるように、ウチでご飯を作って食べる必要さえ本当はないんですよね。カジュアルにゆっくり外食ができるような社会っていうのも素敵だと思います。つまり、保存料たんまりのコンビニ弁当に依存しない生活です。
電子レンジと炊飯ジャーからへの依存から解放された私は気を良くして、魚焼き器つきガスレンジを撤去してみることにしました。そして、購入したのが一口のガスコンロ。正直これだけで台所が回せるのか、ちと怖かったのですが、やってみたら大正解!
キッチンの風通しがよくなり掃除しやすくなり、調理がより便利になりました。一番驚いたのは、気持ちが軽くなった事です。ガスレンジの圧迫感が半端なかったことがわかりました。
どんどん調理がシンプルになってゆくと、気になるのはキッチンから出ていくもの、つまり「生ゴミ」です。
■野菜くずをゴミ扱いしないこと
みなさん調理の時に出る「野菜くず」などはどうされていますか?
野菜くずなどを「ゴミ」扱いしない、というのが私の方法です。まず、三角コーナーを撤去します。三角コーナーを置いたとたんに、そこに入れたものは「ゴミ」になってしまうからです。一度「ゴミ」になったものに対して、私たちは残酷です。自分たちとはもはや関係がないものとして生活から排除しようという気持ちが生まれてしまうのです。
嫌悪・排除の意識が「ゴミ」を作るのです。
猫の食べ残し・アボガドの皮・傷んで取り除いたルッコラ・水菜の根部分。調理しながら出たクズは別の皿にとっておき、排水口の網にたまったものは水を切ったあと野菜クズと一緒にします。
ごみ扱いしない。価値のあるものと扱う。そこがポイントです。うちでは、生ゴミは大事な菜園の堆肥になるべく段ボールで作ったコンポストに迎えられます。意味のあるものの循環を作る。これが大事なんじゃないかと思います。
街を歩くと目に入るゴミの集積所。そこでのゴミの出し方を見ていると私はとても悲しくなります。可燃ごみでも不燃ごみでも、粗大ゴミでも。これは自分とはもう関係のないものだ、という意識で捨てられているのがよくわかるからです。
手離すものに対する敬意みたいなものがまったくない。
ゴミを嫌悪する。ゴミを憎む。そんな人が、自分や周りの人々を大切にできるとは思えないのです。自分から出たものでありながらそれと自分は関係ない、という無責任な思考回路が「嫌悪すべきゴミ」を生むのです。
なぜゴミが嫌悪されるようになってしまうのか、それはあまりにも「自分を表現している」だからだと思います。だから、自分から離れた途端「見たくないもの」になってしまう。そして、見たくないあまりに「隠す」。するとそれは「腐り」、ますます見たくないものになってしまう・・・。
「ゴミ」は自分自身を表しているんですよね。
ゴミに敬意を、というのは「自分に敬意を」ということでもあるんです。自分に敬意を持てれば、自分からでてゆくものは嫌悪すべきゴミにはならないはずなんです。
タイトル上の画像は、「シーグラス」。ゴミが宝石となって戻ってくるなんてこともあるんですよね。
菜園を始めたこと、から新しい価値観が生まれました。家電がなくても結構大丈夫かもしれないこと。ゴミを意味のあるものとして扱うことで自分を大切にできるかもしれないということ。意識革命はまだまだ続きます。
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