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孤独は、孤高か寂しさか


今月のコルクラボでの班活動のディスカッションテーマは「孤独との付き合い方」だった。話してみると「孤独」の定義やイメージが人それぞれで発見があった。

コルクラボでは、毎月ゲストをお呼びして、サディこと佐渡島庸平さんとの対談をメインにした定例会がある。その事前活動として、ゲストに合わせて推奨される課題本と、班活動という5,6人くらいのディスカッショングループでテーマに沿って話す活動を実施している。
そして、今月のゲストは分身ロボットOrIHime開発者、『サイボーグ時代』の著者の吉藤オリィさん。彼の話を聞く前に、自分たちの「孤独との付き合い方」をあらかじめ考えておくと理解の解像度が上がるだろうというわけだ。

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ディスカッション自体はテーマについて用意された補助質問に答えながら進める。今月は以下の内容だった。

▼孤独との付き合い方
■あなたはどんな瞬間や状況の時に、孤独を感じる?
■孤独を感じた時に、どうやってその孤独と向き合ったり、消したりしている?
■孤独を感じている人が周りにいたら、どうやって声をかけたりする?

僕らの班では、大きく分けると2通りの「孤独」があった。自分の言葉でまとめてみると「みんなの中で、自分だけ1人の”寂しさ”」と「未来のために進んでる時の”孤高”」の二つだ。

前者は、例えば休日の夕方のふとした瞬間や、パーティなどに出て手持ち無沙汰にした瞬間に感じる。
後者は、論文を書いている時や、自分がやるべきと思う仕事で残業していて手を休めた時などに感じる。

なんとなく前者が今回のお題に近いものかと感じつつも、後者を「孤独」と呼ぶのに改めて気がついたのが自分としては新しかった。

先に書いたように、「孤高」が似た言葉となるだろうか。

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孤高というと、自分の中では、夢枕漠氏が書き、谷口ジロー氏がマンガ化した傑作『神々の山嶺』を思い出す。どうしても、孤高というと山を登るイメージがある。険しい山を、1人で登る。困難に自分一人で立ち向かうイメージだ。

一緒に話したメンバーは、内田樹氏のブログからの文章を引用して、「未来」への贈り物を作る作業と評した。

(学術論文は)誰が読むのかは、それは書いているときはまだわかりません。
いつか、どこかで、その論文を手に取ることになる「誰か」です。
みなさんが今回選んだのと同じテーマについて、何となく気になって、前からいろいろ考えていて、「もっと知りたい、もっと理解したい」と思っている「誰か」です。
論文はその「まだ見ぬ読者」を宛先にした「贈り物」です。
その読者に「ああ、私は『こういうもの』を探していたのだ。『こういうもの』を読みたかったのだ」と思って貰うように書く。
その「贈り物」性こそが学術論文の本質であると申し上げてよろしいでしょう。

──内田樹の研究室「卒論の書き方」
http://blog.tatsuru.com/2010/08/03_1235.html 

あるいは、村上春樹氏の著作から引用して、以下の様に孤高に潜む孤独について理解を深めた。

たとえば、これはあくまで僕の場合はということですが、書き下ろしの長編小説を書くには、一年以上(二年、あるいは時によっては三年)書斎にこもり、机に向かって一人でこつこつと原稿を書き続けることになります。朝早く起きて、毎日五時間から六時間、意識を集中して執筆します。それだけ必死になってものを考えると、脳が一種の加熱状態になり(文字通り頭皮が熱くなることもあります)、しばらくは頭がぼんやりしています。だから午後は昼寝をしたり、音楽を聴いたり、害のない本を読んだりします。そんな生活をしているとどうしても運動不足になりますから、毎日だいたい一時間は外に出て運動をします。そして翌日の仕事に備えます。来る日も来る日も、判で押したみたいに同じことを繰り返します。
 孤独な作業だ、というとあまりにも月並みな表現になってしまいますが、小説を書くというのは──とくに長い小説を書いている場合には──実際にずいぶん孤独な作業です。ときどき深い井戸の底に一人で座っているような気持ちになります。誰も助けてくれませんし、誰も「今日はよくやったね」と肩を叩いて褒めてもくれません。その結果として生み出された作品が誰かに褒められるということは(もちろんうまくいけばですが)ありますが、それを書いている作業そのものについて、人はとくに評価してはくれません。それは作家が自分一人で、黙って背負わなくてはならない荷物です。
 僕はその手の作業に関してはかなり我慢強い性格だと自分でも思っていますが、それでもときどきうんざりして、いやになってしまうことがあります。しかし巡り来る日々を一日また一日と、まるで煉瓦職人が煉瓦を積むみたいに、辛抱強く丁寧に積み重ねていくことによって、やがてある時点で「ああそうだ、なんといっても自分は作家なのだ」という実感を手にすることになります。そしてそういう実感を「善きもの」「祝賀するべきもの」として受け止めるようになります。アメリカの禁酒団体の標語に「One day at a time」(一日ずつ着実に)というのがありますが、まさにそれですね。リズムを乱さないように、巡り来る日を一日ずつ堅実にたぐり寄せ、後ろに送っていくしかないのです。そしてそれを黙々と続けていると、あるとき自分の中で「何か」が起こるのです。でもそれが起こるまでには、ある程度の時間がかかります。あなたはそれを辛抱強く待たなくてはならない。一日はあくまでも一日です。いっぺんにまとめてニ、三日をこなしてしまうわけにはいきません。

──村上春樹『職業としての小説家

時に、自分にストイックに生きようと思うと同じ感覚にはしばしば出会う。小説家や登山家は、その感覚を持つことが職業としての価値を高める事もあるかもしれないが多くの共同作業の時、それは一つ目の「寂しさ」につながるような障壁として感じることもある。

ただ、いまの時代は不確実性に満ちて、独自の問題発見が価値を持つ。だから、個々のオリジナリティこそが価値を生み出す時代でもある。
この「孤高」の感覚に慣れ、慌てずに向き合えることは一つの成長なのかもしれない。

「孤独」が、愛などの対義語としてではなく、独立した言葉として意識したら何通りもの意味が出てきた。その中には「寂しさ」だけではなくて馴染み深い感覚を感じ取れた。

それもまた、「孤独」が癒され寂しさがまぎれる時だった。


おわり。


#毎日出す 20191113 DAY52
#勝手にコルクラボ

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