見出し画像

哲学者の父、経営者の父

結婚した相手がお寺の娘だった。お寺に縁もゆかりもないわたしがなぜ、そんなことになったのか未だによくわからない。ただ、好きになった女性がたまたまお寺の娘だったというだけだが、わかっているのは、それで良かったのだということだ。お寺の住職である義理の父は、天台宗でありながら臨済の門を叩いた、修行者であり生粋の哲学者だった。初めてゆっくり話をした時に、「コマはどんなに早く回っても、その場からうごかないんだ」と伝えられた。頑張るだけでなく、進みたい方に身を傾けろ!との哲学的な教えだった。

実の父は、経営者である。わたしが物心ついた時から経営者だった。わたしが子供の頃は会社を作ったばかり。家には「有限会社エイコウ電子」という看板が貼られていた。3部屋しかない小さな家には、当時はまだ珍しかったビジネスフォンがあった。母は借家の裏庭でブルブルと音を立てているコンプレッサー装置を繋いだ機械で、庭に建てたプレハブでプラスティックの成形の仕事をしていた。父の会社の社員は、時折マージャンをやりに我が家に来た。いつの間にかプレハブで内職をする近所のおばさんが毎日のように働きに来ていた。共働きであったが寂しい思いをしたことはなかった。

経営者である実の父は、お金についてよく語った。働く会社がいくつも倒産し、ついに自分で会社を立ち上げることになった。そのためか、お金に煩かった。外食をすると決まってお金の話をする。高い、安いを食べる前に話す。わたしは幼いころから、それが嫌いだった。外食に行く時に、何が食べたいかを聞かれて素直に

「うどんか、ラーメン!」

と答えたら、お前は安いなあ。と喜ばれた。父を尊敬するのは、働く人にしっかりとお金を払うところだ。賞与を払う資金さえない時に、普段は温厚な母と父が家で言い争いをしていた。

「今年くらい、払わなくていいじゃないの」

「ダメだ。みんなローンとかもあるだろう。なんとかするんだ」

銀行に頭を下げて、資金繰りをして賞与を支払った。もちろん社員はそんなことは知らない。わたしは、小学生だったが、バカだなあ。と思っていた。今、47年続く父の会社の取締役になったわたしには、父のその気持ちがわかるようになった。

哲学者である義理の父は、お金の話は滅多にしない。だからと言って湯水の様にお金を使うわけでもない。檀家からは尊敬されている。先日、比叡山から功労賞を頂いた。わたしは足の悪い住職を車で比叡山に連れて行く係になった。比叡山から受賞される功労賞は4つあるのだが、なんと今回は最後の4つ目の功労賞を受賞したのだ。4冠達成の快挙だ。夜は瓢亭でお祝いをした。

「早くに住職になって長生きしてれば、取れるもんだからなあ」

と、住職は話していた。住職のお父様は、大東亜戦争で満州から日本に帰ってきて住職を宿し、数ヶ月後にフィリピン海戦に出兵し亡くなった。住職は父に抱かれた記憶もなく、気がつけば位牌になった父を抱く側になっていた。若くして住職になった自分の精神を、自ら鍛えるために飛び込んだのが、座禅の世界だった。

自らを鍛えるために、座禅の世界へ飛び込んだ哲学者である義理の父。

社員を雇い続けるために、身を粉にして資金繰りを続けていた経営者である実の父。

義理の父は満80歳。実の父は満84歳。

まだまだ二人の父から学ぶことは沢山あるが、その精神を受け継ぐ覚悟をして2020年を迎えた。正反対の二人の父の間にあるわたしは、それぞれの意思を受け継ぐ器であり続けようと思うのだった。


文章が評価されるのはうれしい。その喜びを頂けて本当にありがとうございます。