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番外編 四十九日

本日、でかちゃんの四十九日だ。
今しがた、ご神木の森に行ってご挨拶をしてきた。

今日のご神木


でかちゃんが旅立ってここまで、本当に苦しかった。単に「悲しい」というのではなく、ひたすらもがき苦しんだ。
なぜこんなにも苦しかったのか?

それは
「わたしがでかちゃんを死に至らしめたのでは」
という思いが、次から次へと湧きまくり、全く尽きることがなかったからだ。

「もっと早く○○をきちんと投与すればよかった」
「西洋医学的な処置にも頼ってみればよかった」
「お外に自由に行かせてあげればよかった」
「もっとちゃんと観察すればよかった」
「もっとたくさんそばにいればよかった」

【もっと〜〜ればよかった】

この定型フレーズでしか、でかちゃんとの日々を振り返れなかったのだ。過ぎ去った時間の「やらなかったこと」の中にしがみつき、そこで生きていた。そりゃ苦しいに決まっている。

ただ、でかちゃんだって只者ではない。こんなにも「苦しみたいわたし」にいろんな景色を見せてくれた。でかちゃん自身がさまざまな姿で現れてくれていた…とも言えるかな。

「ねーねー!おかーさん!みてみてみて!!!」
と言いながらでかちゃんは、キジだったりサギだったりカラスアゲハだったりクモだったり…とわたしが見える姿で出現してくれていた。
そして、そうやって「視覚」で確認できる何かだけではなく、出来事としてでかちゃんはわたしにいろんな「コト」をひたすら授け続けてくれた。ゆっくり丁寧に思い返すと、あまりにもたくさんあり過ぎて、圧倒されるほどだ。


苦しみの中で、ある人のブログでこんな一節に出会った。

◆◆◆◆◆

「今の自分」の心がけ次第では、過去の自分たちの責任を取れる。
責任とは何か?
「今が最高」と言えること。

〜〜中略〜〜

ここまで全ての「私たち」の行動の連なりが「今」を作っているから。

この「今」を、「良い」と言えたなら。
過去の全員が、報われる。

さとうみつろうさんブログより→https://ameblo.jp/mitsulow/entry-12750388892.html

◆◆◆◆◆

でかちゃんなしの今の生活に対して「今が最高」となかなか言えず言いたくなく、それでもがんばって「わたしの今、サイコー」と、ブログ読後にささやいてみた。でかちゃんが笑顔で「いいね!」と親指上げてくれているように感じた。

あとはてんとうむしのサンバを口ずさめばいいかな。

今日以降、でかちゃんがわたしの周りをチョロチョロしなくなるのかなと思うと、それもまたさびしさに拍車をかけてしまうのだけど。けど。
わたしは「過去のわたし」に責任取っていこう。
うれしかったことも苦しかったことも、今のわたしが最高なのだったら、それらの全てに責任が取れるんだ。

でかちゃん、本当にありがとう。
こんなにも弱っちいおかーさんに、たくさんの視点をもたらしてくれて、本当にありがとう。

でかちゃんがいなくなってすぐは、他ねこたちが入れ替わり立ち替わりマジで頻繁に窓から庭を眺めていた。あまりにも頻繁だったので、誰が何時に見ていたかを一時期記録していたぐらいだ。あれは絶対、でかちゃんがこれみよがしに庭で遊んでいたんだろうな。わたしだけが見えないのが非常に悔しい。
旅立ち1ヶ月を過ぎた頃から、他ねこたちが食い入るようにお外を眺める姿もあまり見かけなくなった。

そういえば、でかちゃん旅立ち後、立て続けに「えーーーー!!!???」となってしまうような出来事が起こった。逆に「やったーーーーー!!!」という出来事も度々起こった。その度に生きている手触りがものすごくハッキリする感じがし、救われたような気分になった。

さっきご神木に会いに行ったとき、こころを込めて半べそでお礼をしたら
「大丈夫!任せといて!」
と、またもやキラリと微笑んでもらえた。

生きていこう。
「わたし」という人生劇場で、めいっぱい生きていこう。
任せろ!わたし!

おそらくてんとうむしのサンバを口ずさんでいる 2021/11/30

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