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おそろしげなるよろづの虫、私も愛でる

昆虫マニアではないけれど、虫はだいたい好きだ。
8階の我が家のベランダに、たまに訪問客があるとうれしくなる。

ベランダで息絶えていたタマムシ。
厨子作るには何匹必要だったのだろう

サントリー美術館で「虫めづる日本の人々」展。

虫の音がリーリーコロコロ流れる薄暗い展示室。
展覧会タイトルには「日本の人々」とあり、南宋や元、明代の作品もあったが画や工芸品はほぼ日本の物。
でも虫や草木を愛でてその名前に精通することの大切さは、もともとは論語で孔子が弟子の陽貨に説いたことから来ているのだそう。
ということは、日本人は中国から学んだってことなのか。

古典文学でも源氏物語や枕草子に虫は普通に出てくる。
枕草子第四十三段、虫についての随筆を読むと、清少納言がたくさんの種類の虫について知っていてよく観察しているのに驚く。絵巻でおなじみの寝そべり女官ポーズで、ジーッと虫たちの様子見ていたのだろうか。
清少納言なので、私見たっぷり想像力も逞ましく「ミノムシは鬼の親にみすぼらしい着物を着せられ捨てられて、風が吹くと『ちちよ、ちちよ』って心細そうに親恋しく鳴いてるのが切ないわよね〜」なんて勝手にしみじみしているけれど。
でも何てったって元祖昆虫女子は、虫愛づるあの姫君だ。
高校の古典で堤中納言物語の「虫めづる姫君」を学んだ時は衝撃だった。

モテ系愛されメイクには見向きもせず、眉はそのままボサボサ、お歯黒面倒くさ、と自然体。髪も当時のトレンド無視で耳に引っ掛けて、「ひとはすべて、つくろふところあるはわろし」なんてそのまんまアンチルッキズムのスローガンみたいだ。
花とか蝶ばっかりもてはやすのって浅はかじゃないの?とみんなが気持ち悪いと避ける毛虫を「心深きさましたるこそ心にくけれ」と可愛がったり、虫を捕まえて来てくれる童たちに「けらを」「いなごまろ」とあだ名をつけたり。
平安時代にこの自由な魂。

多くの人々から、その名を口にするのもおぞましいとGと頭文字だけで呼ばれ、忌み嫌われているゴキブリ、私は普通に虫の一種として見ていた。
中学の夏休みの自由研究でゴキブリの観察記録と生態をまとめて提出した時、同級生たちにドン引きされた。もう使っていない古い机の引き出し隅のフン写真もつけたので、母には「すごく不潔な家だと思われる!」と嘆かれた。
私の『ゴキブリの研究』は市の賞(佳作か何かのそんなに偉くないレベル)を取ったが、推してくれた理科教師以外喜んでくれる人はいなかった。
虫めづる姫君がその頃の私の同級生だったら、「やったじゃん!」とハイタッチしてくれたかなあ。

人によって苦手な物は様々なので、虫が気持ち悪いというのも理解はできる。私は毛虫や蜘蛛やヘビはかわいいと思うが、ぶりぶりに太った蛾はちょっと苦手。
今回の展覧会、蝶も蛾もまとめて描かれているものもあり、蛾だけ差別するのは偏見かも。そもそも蝶と蛾を区別しない言語もあるし。

カエルやイモリ、ヘビ、コウモリ、カニなども虫と一緒に描かれていた。みんな愛でる対象。

菜蟲譜 伊藤若冲
ターコイズブルーのカエルがきれい

(展覧会は撮影不可の為画像はフライヤーより)

ムカデやイモムシ、かわいい。楽しそう
立派なカブトムシ
オタマジャクシ、イモリ、ゲンゴロウ、ヤゴ
どれもいいなあ


天稚彦物語絵巻
鬼舅にいびられ無理難題をふっかけられた嫁を
アリたちがせっせと米粒運んで助ける


他にもホタル狩り、江戸の虫売りの絵、蝶模様の打掛けや簪、スズムシの蒔絵箱、蜘蛛の巣模様の薩摩切子など虫づくし。

スカラベとか蜂とか、虫を神聖化したり紋章にしたりしてきた国は他にもある。人々が昔からその鳴き声に耳を澄ませ、見て楽しみ、芸術や文学に取り入れてきたのは贅沢な心の余裕だなと思う。

ところで今月の親子おはなし会で読む予定の本は、『セミくん いよいよ こんやです』工藤ノリコ作。

教育画劇 2004年

地中に暮らしていたセミの幼虫にその時が来て

住み慣れた我が家に別れを告げ
満月の夜、ついに…


タイトル写真は母からもらった琥珀のアリのブローチ。私にはとても使いこなせず、眺めるだけ。

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