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勝ったッ! 第1部完!

人生の第1部が終わった。さっぱりしたようで、なんとなくむなしい。
復讐が終わったときってこんな気持ちなのかな。

これまでのあらすじ

「~すべき」「~ができない人間はいらない」と言われて育ったため、自分は人一倍劣っており、一人前の人間になるためになんでもしないといけないと思ってた。

この5年くらいは、そのときに受けた呪いをはねかえさないともう生きていけないとわかっていた。会社を休職することになって、その原因は自分の中にあると気づいたから。

私が取りつかれてきた呪い一覧をご紹介したい。

①存在してはいけない

基本的に自分は存在してはいけないもので、お目こぼしか何かで生きているので、他人に何かを要求してはいけないと思っていた。
反対に、他人から何かを要求されたときに上手く差し出すのが生きること……

たとえば前から歩いてくる人がいたら、たとえ左側通行で自分が左側を歩いているとしても、絶対に相手に譲る。なぜなら、私が存在していなければ相手はそのまま直進できたはずだから。
ものすごくしつこい男性からのメールも律儀に返しつづけていたため、反ストーカー化みたいな目にあったことも3回くらいある。

他人の気分を害することをしてはいけないし、そういうことをすると、(親にされたみたいに)心をズタズタにされる仕打ちを、他の誰からも受けるんだろうと思っていた。

半年前くらい前にはじめて、他の人はこの呪いにかかっていないんだと気づいてびっくりした。
「この人の機嫌損ねちゃったかな……」って思ったとき、目の前が真っ暗になって死にたくならないってこと、いまだに想像できない。

②人と積極的に関わってはならない

①の派生形なんだけど、誰かの前に一個人として存在してはいけないと思っているので、特に誰かと会話するのがとても怖かった。

世の中の人はあたりまえのように会話しているのでマネをしてみるが、恐怖や自分を隠したい気持ちが勝るので、話が盛り上がらない。言ってることもそれっぽいウソだし。

たとえば「こういうデートがしたい」みたいな会話をされたとして、私はデートに興味ないのでそんな話終わらせたいんだけど、口からは「えーわかる」みたいなウソが出ている。

代案もないのに「興味ないからその話やめよ!」は失礼かなと思うし、かといって「そんなデートしたくない」まで否定はできない。他人というすばらしい存在を否定してはいけないという禁止令もあるから。
常にこういう微妙な気持ちで誰かと向きあっていて、しかも別に会話が上手くないので、ウソがウソだとバレる。

それにメッキがはがれたら軽蔑されると思っているので、誰かと関わったり会話したりするのは、導火線に着火して爆発するのを待っているようなものだった。人生はマッチ箱のようなものとは言うが、冗談じゃない火遊びは心臓に悪い。

③他人を許せない

ここまででお分かりの通り、「他人」という主語の大きい存在に迫害されていると思ってきた。(本当は他人ではなく、自分の親とか、未熟な一部の人たちである)

この「虐げられている」がひっくり返って、「あいつらを許せねえ」とずっと思っていた
どうして私が虐げられて「~すべき」を守らない人たちが楽しそうに生きられるのか。理不尽さで気が狂いそうで、何か嫌な仕打ちをされるたびに情緒がめちゃくちゃになっていた。

たとえば職場の人にパワハラ・セクハラされたとき、(常識的に考えて)悪いのは相手である。でも悲しいかな、軽微なパワハラ・セクハラでは社内の倫理委員会は動かない。
こういうときに本当に血が沸騰しそうになり、相手が生まれたことを後悔するくらいの苦痛を味わい、一生笑えなくなってほしい、と思うことを止められない

冷静に考えると(パワハラもセクハラも、悪いことだが)それほどの罪状ではないのに、極刑レベルの罰を願わずにはいられなくなってしまう。

第1部ハイライト

そんなこんなだったが、運命により(対話と受容をモットーとする)夫と結婚したことで12時の鐘が鳴り、魔法が解けていった。

特に第1部を終わらせたのは、マネジメント職に就いたことだった。

以前にも書いたが、マネジメントというのは……上に書いたような禁止令をぜんぶブルドーザーで踏み倒すということである。

存在してはいけないの逆で、存在しなくてはいけない。いてもいなくても変わらないようなマネージャーは給料泥棒なので、「存在してくれてよかった」と言われるようなプレゼンスを出していかないといけない
具体的には、苦しい状況でも意思決定をバシバシ行って、物事を前に進めないといけない。

人と関わってはいけないの逆で、たとえどれほど心苦しくても気が引けても、上手くいっていないことがあればそれをフィードバックして行動を変えてもらわないといけない。そのために自ら信頼関係を築き、率先して自己開示していく必要がある。

他人を許せないと上手くいかなくて……他人のいろいろな価値観・行動を受けいれて、そこから新しい約束事や、共通見解を作っていかないといけない。たとえばものすごく理不尽な要求をされることもあるが、そこで怒り狂っても何も始まらないので、相手がなぜそう言っているのか・何を要求しているのかを見極めて、現実的な要求ラインに引き下げていかないといけない。

呪いをぜんぶブルドーザーで轢き殺したあと、パワーショベルとクレーンを買ってきて、新しい自分を作るのに成功した。

これほどドラスティックに自己革新を行ったことで、(恐れていたはずの)メンバーからも信頼されていると思うし、社内の人たちも気軽に話しかけてくれる。
「メッキが剥がれて軽蔑される」はウソだったわけだ。自分のことを包み隠さず話しても嫌われなかったし、むしろ気の置けない同僚ができた。


第2部

ここまで呪いを破壊できたのは、周りの人の支えもあるし、自分の常軌を逸した努力もあったと思う。(余談だが、会社の人からの360度評価で、『とてつもない勇気』というコメントを2件もらった)

でもなぜか……むなしい。
物心ついた10歳のときから、①~③の禁止令に苦しめられている感覚があったし、それに明確に気が付いた18歳からは、この存在そのものがコンプレックスだった。25歳からはこれを克服しないと社会で生きていけないことがわかったので、克服するのに必死だった。

解けてしまえばあっけない。時間が解決したというより、科学的にテクニカルに攻略したので、こういう頭でっかちな方法で解けてほしくなかった……とも思う。
「心なんて電子信号の働きなんだぜ」っていう即物的な考え方はきらい。でも実際そういう感じで解いてしまった。

たとえば、人って新しい状況にネガティブな感情を抱きやすい。新しく会議に参加した人って「こういうところがダメ、ああいうところがダメ」って言いがちなんだけど、3回も出席すれば言わなくなる。
だから「ここがダメ!」って言われてもぴゃーって絶望するのではなく、「状況が言わせてるな…」と冷静に一歩引いて見ている。

こういうふうに、「その人が言っている」のではなくて「環境が言わせている」「経験が言わせている」と理解して、相手の次の心理状況を予想するようになった。

一生かかっても解けない呪いで、解決できない問題であり続けることで、これに苦しめられていた時間の価値が増すんじゃないかと思ってた。
この苦しみが永遠で唯一無二であったらいい、自分の心のなかで暗く輝き続けてくれたらいい、とどこか思っていた気もする。

解けてしまったいま、そういう普遍的な青春の苦しみを抱えた人間がいて、それが過去になって、より大人になったんだね……以外のドライな感想が特にない。

もう、このコンプレックス以上に、心が引き裂かれて、すべてを燃やしつくす情熱を注げるものって現れないのかな。ないとしたらつまんないな。
私はもっと燃えていたいぜ。すべてを焼きつくすくらいに。

これからってたぶん、色んな苦しみが2週目に入って、「あーこれ知ってるな」が増えていくんだろうな。新しい感覚、新しい恐怖、新しい喜びがどんどん少なくなっていく。これって人生の終わりなのかな。もう終わりみたいなもんなの?

…っていう話を夫にしたら、「人生が始まったと思いなよ」って言われた。そうなのかも。

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