見出し画像

『夜想#山尾悠子』

その人の名前を知ったとき、その人は既に伝説となっていました。
『仮面物語』や『夢の棲む街/遠近法』といったタイトルの持つ磁力に惹かれながらも、作品を手に取るまでにはなお時を要しました。時折その人の名前や噂を耳にして、いつか読まなくてはならぬ、と思いつつもその欲望は他の多くの書物を前に埋もれていました。

ようやくその人―山尾悠子さんの世界に触れたのは2012年。ちくま文庫に収録された連作長編『ラピスラズリ』です。静謐さを湛えた眠りと再生の物語に夢中になりました。その後ちくま文庫から刊行された『増補夢の遠近法 初期作品選』もすぐに入手し、まだ2冊しか読んでいないにもかかわらず、彼女の作品は私の書棚で特別な位置を占めるようになりました。

当時、山尾さんは既に執筆活動を再開していたのですが、私の方は生活に大きな変化があり、かつてほど精力的に情報を入手することができなくなったので、2018年、文藝春秋社から新作長編『飛ぶ孔雀』が刊行されたのは、私にとってまさに青天の霹靂というべきことでした。山尾悠子の新作?国書刊行会からではなくて文藝春秋から?(失礼ながら)いつのまにそんなメジャーな存在になったの?いてもたってもいられず読み始めたのですが、そこにあったのは往年と変わらない山尾悠子の文学空間でした。どこか泉鏡花的な情緒がありながらもどこともいえない舞台。一語一語彫琢された明晰な文章の連なりなのに、いつしか不可知の世界に読者は迷い込み、戸惑いながらも魅了されずにはいられない。山尾悠子ならではの世界が確かにそこにはありました。

驚きはその後も続きました。まず泉鏡花文学賞受賞の知らせです。作家の名前を冠した文学賞は数ありますが、その作家とのつながりを感じさせる受賞作を世に出している賞はそうありません。泉鏡花文学賞は数少ない例外であり、山尾さんに賞を与えるなら、過去に中井英夫、森茉莉、金井美恵子、澁澤龍彦、筒井康隆、倉橋由美子といった面々が受賞したこの賞こそふさわしいと思っていたので、我が意を得たりとの思いを強くしたものです。さらに日本SF大賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞して三冠達成。取った賞の数で作品の価値が決まるわわけではありませんが、こと『飛ぶ孔雀』については名実ともに21世紀を代表する傑作にふさわしい評価を得たと考えています。

かつて幻の作家と呼ばれていたのも今は昔。現在は、Twitterで山尾さんのアカウントをフォローすることもできるし、新作『山の人魚と虚ろの王』も刊行。さらに今回取り上げた「夜想」誌による山尾悠子特集号も世に出たのですから、これから山尾悠子を読もうとする読者にとっては、これ以上ない環境といえるのではないでしょうか。

山尾悠子特集を組んだのが「夜想」誌であることも、個人的には感慨深いものがあります。かつてペヨトル工房から出版されていた「夜想」誌は、ベルメールやアルト―、怪物・畸形、ボルヘス、未来のイヴといった特集を次々と世に問い、読者を異界に誘う入口として機能していました(他にもややサブカルチャー寄りだった「銀星俱楽部」や「WAVE」もペヨトル工房から出ていた忘れがたい雑誌です)。まさに山尾悠子の特集を組むならこれしかない、と思わせる雑誌なのです。ペヨトル工房は1998年に雑誌の刊行を停止し、ほどなくして解散しましたが、2003年にステュディオ・パラボリカによって、新生・夜想として復活して現在に至っています。

若き日の山尾さんの肖像をカヴァーにしたこの特集号は、寄せられたエッセイ、評論とも読み応えがあります。山尾作品と美術作品との関連を論じた金沢百枝さんの論文ではカラーで図版を掲載。さらに山尾さん自身による「年譜に付け足す幾つかのこと」や泉鏡花文学賞受賞記念スピーチなど、多角的視点から山尾作品に光を当てている充実した内容です。今、もっとも読まれるべき作家のこのうえないチチェローネとして、初心者からマニアまで手に取っておきたい一冊。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?