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先延ばしが治ってきた

もう、そうなってしまってから長い話。スマホ依存なんです。Twitter、じゃなくてXか。YouTube。幼い子と変わらないですね。まず、依存を認めるまでも長い期間がありました。こうやって無為な時を過ごしてしまい、気づけば年を取ってしまいました。

時間の流れが遅いというか、はっきり言って他人より時間が「薄い」自覚があります。とにかく腰が重い。実行機能の発達が阻害されているわけです。おかげで話題もなんもないおもんないやつ、になってしまいました。限られた興味も、極めて抽象的な分野に捧げられてしまっているため、本当に具体性に欠ける、生身の人間らしさがほとんどない人間になってしまいました。ああ、ASD。簡単に言うと話題がない。他人の話がわからない、しかも興味ある素振りもへたくそ。

今まではそれでよかったんですよ。哲学や数学のことを考えていれば時間はむしろ足りず。他人と話をしたいわけでもなく。ところがだんだん興味が抽象から具体に移ってきているようで、また社会的な立場も上がるにつれて、いわゆる「人間社会をやる」ことの比率が上がってきているのです。

無為な時間を減らす、というか周囲は、よくそんなに躊躇なくいろんなことを息継ぎなしに進めていけるなあ。しかも毎日毎日繰り返し。地味だし、誰もほめてくれないことも多いし。

と思っていたわたしが、ようやく、中間管理職となり、地味な下支えの仕事をやらざるを得なくなり、慣れてきたところで、発見がありました。なるほど、普通の人はこういう感じでいろんなことをやってんだな、と。やりたくなくても、責められても、今すぐやらなくてもよきても、非効率でも、失敗するかもしれないことを、たとえ馬鹿にされながらでも、とにかく、やるんだな、と。

そこにそれなりの喜びみたいなものがあるんだな、と。そして、やりたいことをやる、というのは、実はこういう感じなんじゃないのか、とも逆説的に感じたりしているのです。

逃げずに、正面から立ち向かうと、なんと、不思議と依存しなくなってきているのです。よくなってきて初めて、自分が鬱っぽかったり、依存症だったりすることにきがつくものかもしれません。自力で気づきましたが、通院していたらもっと早く気づけたんでしょうか。わかりませんね。

ただしASDの特性だけは、やはり残っています。こいつぁ正真正銘だな、とも改めて認識しつつ、そんな自分を受け止められるようになりましたよ。今、苦しい方も、そういう日が来ると、わたしは信じています。どうかお互い、がんばりましょう。

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