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"愛"について考える

愛について、何かと1年ないくらい考え続けている。他にも考えていることはあるが、全てこの"愛"と繋がっているような気がしている。


そもそもの考え始めたきっかけは2020年12月頃、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という書籍だ。
興味はあったが、直視するのがつらい時期が続いていたため、読んでみるかと重い腰をあげた。思った通り、自分の病んでいた時期に読んでいたら打ちのめされていたことだろうという内容だった。

実はきっかけになっていたのは数冊あって。

続いて、ヘンリー・D・ソローの『ソロー日記』。
以前にも書いたが、とあるnoteの記事をきっかけにヘンリー・D・ソローを知り、どんな人なのだろうとあの分厚いソロー日記春夏秋冬を読み始めた。孤独やご隠居…といったイメージのあるこの人がどのように愛を語るのかと。

最後に、『後深草院二条―『とはずがたり』の作者』。とある天皇に仕えた女房の解説がされた書籍だ。
当時の時代背景もあるのだが、ここ直近でしんど…となった本だった。どちらかと言うと性愛寄りかなあとは思うが、いろいろと考えさせられた。

他にも影響を受けた書籍はたくさんあるが、だんだんと趣旨がずれていってしまうので、また後日。


まあまあ本を読んでいる方かとは思うが、読んでは考え、考えてはどこかに言葉を残し…としているが、なかなかこれと言った答えは見つからない。自信を持って、愛とはとは語れない。

というのも、とある本では、「愛とは特別な人にだけ捧げる特別な感情ではなく、無償の愛・見知らぬ誰かに手を差し伸べられる心が愛」だと言う。わからなくはない。けれども、それは道徳心や親切では?と思ってしまうのだ。
なぜなら、私は身内にクソ甘な箱庭の民、身内の外を愛することはできない。言い切る。できない。無理。嫌だ。


そのあとも本を読み続け、考え続けて辿り着いたのは、私のその箱庭も世界…いや、宇宙の一部であるということだ。愛を生む歯車の一部なんだ。

その歯車が世界、そして宇宙に愛を流す。自分と誰かとつくっている箱庭が生むものを信じることが、"愛"に繋がるのかなあと思う。

人に与えるものだけが"愛"ではない。
つくる空気、影響の輪のようなものも"愛"と呼べる。

愛は独占するものでも、搾取するものでもない。
何なら測れもしないし、証明もできない。
何が正しいのか、間違ってるのかの答えはどこにも落ちていない。

どうしても正しさを過去から探そうとしてしまうけれど、正しいことの定義が曖昧だし、答えのようなものは"愛"の中にしか見つけられない。


愛は誰かのためだけではなく、世界のために、宇宙のために存在するのかなと思う。
世界や宇宙を愛しているからこそ、それらに所属しているこの世に生きているひゅーまんを愛せるんだ。だからちっぽけなことは赦せる。

ひゅーまんにできるのは、自分が愛に満ちていると信じること、かもしれない。


May the wind be ever at your back

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