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境目

以前、こんな記事を書いた。

生きている限り変わっていくし完璧にはなれないと思う。人がぐちゃっと境目がなくなるくらい混ざらない限り、寂しさはなくならない。
ぐちゃって混じって自分じゃなくなるなら、私は自決を選ぶと思う。そのくらいそういうのは、私は怖い。

https://note.com/sonas80/n/nd304cb320086 『へんてこで矛盾した「寂しさ」に関する命題』

書いていて話がそれていくのはよくあることだ。
定期的に同じようなことを書いている自覚があって、中でも『自他の境界線』『境目がなくなる』『ぐちゃぐちゃになる』といった表現はよく書いているように思う。

白黒を分けるように自他をくっきり分けられるわけがないのは知っている。いくら自己を確立したところで、人は独りでは生きてはいけない。自分をゴリ推しても幸せにはなれない。なれる人種はいるかもしれないが、少なくとも私が求めている未来は得られないように思う。
逆に、その線や境目がなくなってしまうのにも破滅の臭いを感じる。私が人の機微に敏感すぎる且つ共感しすぎてしまうのが原因だが、それ故に今の自分の感情が自分のものなのか、他者のものなのかがわからなくなるときがある。文字通り、自分を見失うような感覚だ。その人が私に何をしてほしいのか、というのがなんとなくわかるような気がして、実際に言いなりは楽なので、その通りにしてしまった。
今は嫌なものは嫌だと言うようになっているため、あまり後者の懸念はない。たぶん。

境目が失われた期間は自分が何を好きなのか、嫌いなのかがわからなかった。好き嫌いというより、生理的にいけるいけない・痛い痛くないなどの最低限の快不快を判断基準にしていたように思う。

実際にそうなってみると、不思議と寂しさはない。なぜなら自分というフィルターを通した歪んだ他人が自分の中にいるからだ。
いい関係が築けている他人ならまだしも(そういう他人なら認知が歪まないはずだが)、私は衝突を避けたかったがために思考停止をした。お察しの通り、幸福感や安心感が得られるわけがなかった。何だろう、人工的な暖かさとでも言うんだろうか。得られていたのはソレだと思う。

一度信じたら相当なことがない限りは信じ続ける、曲げない。それが偽物だとしても。私はそういう人間だ。
当時はその結果、思考停止に陥ったわけだが、今の私はある程度、言葉や伝え方を覚えた(はず)。それなりに処世術は学んだ(はず)。きっと大丈夫だと思いたい。

けれども、そんな頑固すぎるところがあるのは確かなんだ。だから、簡単には自分の内側には入れないし、自分の内面の深い話はそう簡単にしなくなった。
「いや、(深い話を普段から)してるやんけ…!」と思う方もいるかもしれないが、もっと深い部分が存在する。意図的にこの話はしないと自分の中で堰き止めている感じだ。
私が本来使う言葉は生々しいし、エゴに塗れているし、人によっては不快に感じるものだと思う(例え話がたまにエグいんだよね)。あれでも頑張ってきれいにしているんだ。

私の話す言葉は表向きには薄いと思う。あくまでも話しているのは私の感情ではなく、思考だからだ。今までの経験を話しているだけで、それを経験してどう感じたか?は話していないように思う。
今まではそれでいいと思っていた。深い付き合いを、そもそもする気がなかったから。
けれども、だんだんとそうはいかなくなってきていて、自分が今のままだと嫌だなあと思うようになって、自分でも怖怖と話していたりはする(つもりだ)。少しずつ少しずつ小出しにしている(つもりだ)。
私のことだ。きっと何十年もかかるのだろう。今の私が何十年後かの私に賭けるしかないのかもしれない。

でも、やっぱりどこかブレーキはかかる。

どの言葉が、どの感情が人に影響を与えて、縛られるか・縛るかがわからない。私は特にそれを恐れている。だから自分の感情は言わないようにしてきた。過去に私はその『言葉』に縛られて、その『言葉』のために身体も心も時間も差し出した。
私は柵にはなりたくないし、相手を柵にしたくない。
言葉は形はないから残らないけれど、どこか耳に、目に、心に染みるような気がする。滲みやすい紙にインクを落とすようなものだ。一度、色をつけたら消すことはできない。ホワイトで修正したとしても、修正した痕が残る。
その人がどう受け取るかはその人次第でコントロールできないのはわかっている。自分が意図したものが100%伝わることがないのもわかっている。相手にどう思われるかが怖い…というより、自分自身や在り方・感じ方自体が変わってしまうのが怖いのだと思う。
私の中は鎧さえ脱いでしまえば、簡単に傷がつけられる、形を変えられる、そんな代物だ。自分が意図していない形にもなれてしまう。何でも受け入れようとして境目を失ってしまう…そんな感覚さえあるから、自分の感情はあまり話さなくなってしまったのかもしれない。
…たぶんこの『言葉』の具体的な話は誰にもしてないと思う。ある種、私の地雷だし、最高クラスのクソ重エピだし(´◉ω◉`)


ふと思ったことだ。
話は変わるが、『自分というフィルターを通した他人』というべきか、『他人を通して世界を見る』というべきかとても悩ましいが、健全な交わり方(?)に近しいなと思ったものがある。

高村光太郎さんの『智恵子抄』だ。少し前にとある美術館で諸事情により知った。

読んてみて、強い恐怖を覚えたのだけれど、怖いと終わった理由は当人と女性の境目がないような気がしたからだったのだと思う。
けれども、よく考えてみれば起きている現象は境目がなくなるのではなくて、世界が増えているような現象な気がしている。目線が増える、世界が増える…SFで言う平行世界とでも言うんだろうか。そもそも、この文章から女性が高村光太郎氏をどう思っていたのかは読み取ることが難しい。
その人の存在を感じながら、その世界を愛しているのだから、たぶん境目は混じりながらも個が保たれているような気がする。その個がなければ、見える世界すら歪んでいくはずだから。

この『境目』は私独特の感覚だし、理解はされないと思うけれど、昔よりかはこの境目への潔癖は和らいだような気がする。
昔の私と今の私は明らかに違う。自分が溶けてなくなるような、他者に侵食されるような、自分じゃなくなるような感覚はここ数年覚えていない。だから、きっと今の私は大丈夫だ。根拠はないけれど。
言うて、優柔不断でどんぶらこっこされやすい性格にも変わりはないけれども。

そう簡単に私の世界は真っ暗にならない。壊れもしない。だって、目隠しする人も壊す人もいないのだから。
私の目は確かに光を受け取っている。確かにたくさんの色、世界が見えている。今も、これからも。私はそう信じている。


私の身体で感じるものを大事に、刻み込みたい
May the wind be ever at your back

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