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人となにかをつくったじかん

今年を振り返ってみて、個人的に大きく印象に残った出来事があったので、そのことについて記しておきたい。

私自身はどうやら周囲から見ても表現・創作活動にそれなりのこだわりがあるらしい。今は落書き程度のことしかしていないが、昔を振り返れば意外といろいろとかじってきてはいた。
まあ、こだわりはあると思う。

私自身も一人でやろうと思えばできるけれども、『一人でつくることを』注力してやらない理由はただ一つだ。
「人とつくる方がおもしろいし、結果お互いや場にとっても残るもの・おもしろいものができる」から。
例えば、ピアノの発表会はひとりぼっちで頑張るしかないけれど、お芝居は仲間がいて掛け合いがあって初めて作り込んでいくことができる。
(ぶっちゃけ、芝居も一人でつくって、周りにうまーく合わせてやっていくこともできなくはないからなんともだけど)

けれども、人が増えれば増えるほどぶつかるリスクも比例して増えていく。そのぶつかりあいを恐れて、あまり人と何かをやるというのを避けてきていた(つもりだった)。

唐突に「手伝ってもらえませんか?」と声をかけられた

確か春頃、頻繁に深夜にzoomやらDiscordやらで知人と話していた頃、知人と知人と私という組み合わせでちょうど残っていて、「お願いしたいことがあるんですけど…」と声をかけられた。

(´◉ω◉`)「ようわからんけど、いいよー」

確か即答で返したと思う。というのも、そんな変なお願いをしてくるような2人ではないと認識していたからだ。そこで「いいよ」と言ったからといって、「大金を出せ!」だの「○○を暗殺しようと思う…」だの「こういう壺があってね…」だの「今、シアワセデスカ?」だの言ってくるタイプではないだろうと。
「今、シアワセデスカ?」なんて言われたら即通話を切っていただろう。

よくよく話を聞いてみると、彼女は大切な人たちのためにクラシックのピアノ曲を1曲、作り込み仕上げたいらしい。その際の表現・作り込みのサポートをしてほしいとのことだった。

なるほど…クラシックか。
確かにクラシックは幼い頃に弾いていし、今はジャズとてきとーなのしか弾けないけど、それでもいいのか?と思いつつも、せっかく声をかけてくれたのだ。私にできると信じて声をかけてくれたのだ、やるしかない。

改めて、「手伝う」と選択をした。

葛藤~自分にとっての表現~

ここから心の中で問題発生。私にとっての表現とはなんだっけ?と。

表現は何だかんだ自分のやわいところを晒す行為でもある。
一人で黙々とつくっていれば、そのやわいところを晒すこともないし、傷つけられることもない。
けれども、それが複数人でつくるとなったらどうだろう。その弱いところは自然と見せなきゃいけなくなる。「これはどういうこと?」ってつっこまれることになる。その回答をしなきゃいけなくなる。より良いもの、自分らの心や受け取り手に残るものをつくるために、その複数人は共通認識を持っている必要がある。

私はその「話さなきゃ側」になるのが怖かった。自分の中を晒すのが怖かった。癒えきっていないかさぶたになりかけの傷を晒したくなかった。

けども、今回の私は「彼女に問うていく側」だ。それは、彼女の心に踏み入る行為だし、なにが触れられたくないものかもわからない。どう問うていけば、より残るもの・良いものがつくれるだろうか…と言葉や声色を選んだ。

今、思えば、「表現は自分のやわいもんを晒すものだ」というのを押し付けようとしていたのかもしれない。
しかし、未だに自分の表現の内側を晒すのには抵抗がある。これは別件でまだ葛藤している。

伝えようと思えた理由

2つある。

一つは、彼女自身がまっすぐに作品を向き合っていたこと。だから私も応えねばならないと思った。
一つは、私自身にとっても共通の友人である聴き手に何か残したいという表現者としての私のエゴ。

なぜ私に声をかけてくれたのか。それは期待があるからだと思う。だから、力を抜く、変に気を遣って本番が思ったのと違う結果に…となるのはなんか違う。その期待には私なりに応えたい。
あまりにもまっすぐに聞いてくるものだから、私もまっすぐ返さざるを得なかった。意表をつくようにまっすぐくると、まっすぐ返しちゃうよね。

芝居をやっていた頃も思っていたけど、誰か一人の心を少しでも動かせれば表現者の勝ちだ。ドヤッていい。
一人でやる表現は他者の心を気にしなくてもまあ問題はない。だが、聞かせる相手、伝える相手がいるのなら話は別だ。なぜ表現をするのか、何か伝えたいものがあるからだ。なら、伝えて何か変わるような…そんなものを届けたいと思ってしまうのが表現者ではないだろうか?例えエゴだとしても。
演劇やボーカルのある音楽、絵、小説はその点とてもわかりやすい形で伝わる。インスト音楽は少々難しい、伝わりづらい。作り込んだものは100%は伝わらないかもしれない。けれども自分がつくる空気、場、伝わるという信念が奇跡を起こすかもしれない。
そんな気持ちで彼女にさまざまなことを話していた。

彼女の想いに当てられたとでも言うんだろうか。私自身は、彼女が曲を送りたい友人達とそんな沼深い関わりはなかったけれども、いつの間にか同じように大切と思えるようになっていた。
私の自他の境界線が曖昧なのもあるかもしれない。

内なる音楽を解放する

本番間際くらいの頃、彼女にとある本のことを話すかどうか悩んだ。というのも、本番まであと数週間…変に迷わせてしまうかもしれないと思ったからだ。

けれども、私が感銘を受けたのは確かなので、ダメ元で話してみた。
話してみて、読む・読まないは彼女の選択だ。響くのも揺れるのも彼女の中の結果だと割り切った。

人前に立つと緊張しちゃう、思ったように弾けなくなっちゃう、そんな人達のための本。音楽のことを中心に触れているけれども、あらゆることに繋がると思う。

かのマイルス・デイヴィスも言っている。

「間違いを恐れるな。そんなものはない」
by.マイルス・デイヴィス

また、キース・ジャレットはこんなことを言っている。

自分がなぜ音楽をやっているのか、必要だからじゃないのか?と。でもそういう人は少なくなってきた。
by.キース・ジャレット

自分が何のための音楽をやっているのか、なぜやってきたのかを考えさせられた本だった。

たくさん書きたいことはあるけれど、音楽は元々は神様に捧げるものだった。それは何かを願っているのかもしれない、祈りなのかもしれない。神様とつながる唯一の手段なのかもしれない。
他者のための表現は『祈り』だ。その祈りを通じて、空気ができてその場が満ちる。そんな演奏会になってほしいと勝手ながら思っていた。

神に愛されている、音楽に愛されている、世界に、宇宙に愛されている。だからだいじょうぶ、ぜったい大丈夫。そんな想いで伝えてみた。

距離を感じさせない感情

本番は夏だった。私はコロナ下ということもあり、現地参加は見送り、駅の改札まで彼女を送り届けた。諸々あって私が逆に焦っていたなあ。
リハーサルなどはDiscordを繋いでもらって様子を聞いていた。ピアノとも仲良くなっていそう、大丈夫そうだ。

無事素敵な演奏会になったと聞いて安堵した。写真で花束も見せてもらった。表現者としてこの上ない幸せだろうなと思った。

追って、ピアノの音源も送られてきた。本番の演奏を聞くのはそのときが初めてで、自宅のキッチンで椅子に座りながら固唾を飲んで再生ボタンを押した。

聞き終わって残ったものは「あぁ終わったんだな…」という安心感と、ちょっとした喪失感、そして、彼女へのおつかれさまああああああ!!!ようやったでええええええ!!!の気持ち。軽く泣きそうだった。なんだろうね、あれ。

でも、私より前から彼女のサポートをしていた友人、当人である彼女、私がほぼ毎週会話をしていたのだけれど、その積み重ね、曲作りの時間、彼女の向き合い方、それらが噛み合って、心が大きく動かされたんだろうなって思う。

今も続く関係

演奏会は終わったが、まだ私達は会話を続けている。真剣な話をしたり、飲み・ご飯に行ったり、別件で他の友人も含めて集まったり。
まだまだ楽しいこと尽くしだ。

今回の件を通して、自分自身が壁だと感じて諦めていたものをちょっと登ろうとしてみることができた。これは個人的には大きな変化で、あの2人の友人が相手だったからこそできたことなんだろうなって思っている。

普段言う私の言葉がどれだけ薄っぺらかったことか。どちらかと言うと世間一般的には○○でしょみたいな言い方だったから。そこに私の本心はなくて、どこかもやもやしていることが多かった。
仮に本心を言ったとしても、理解はされないだろうし、(自分は相手にとって)理解する努力をする人間に値しないだろうって思っていた。
(だが、自分は相手の本心を抱え込もうとしちゃうからもやっていたんだと思う。なんで私ばっかり重い荷物を持ってるんだろう…みたいな)

それが、私は○○だと思う…と言うようになったのは積み重ねた関係のおかげだなって思う。


今年の春は、私に声をかけてくれてありがとう。おかげでとても貴重な経験を得ることができたし、友達ができたと思っています。
こんな不器用で面倒くさい私だけれど、よろしくね。これからもいっぱいおもろいことしようね。

May the wind be ever at your back

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