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ナヴァー・エブラーヒーミー『十六の言葉』(駒井組)

海外文学編集者のトークイベントを拝聴してきた。
【古典新訳から21世紀の世界文学へ】(書肆侃侃房 藤枝大 × 駒井組 駒井稔)
会場には海外文学を愛する聴衆が集まっており、温かな雰囲気の中で楽しい時間を過ごせた。熱をもらった。

主役となるのは駒井組から出版された1冊。
ナヴァー・エブラーヒーミー Nava Ebrahimi
十六の言葉 Sechzehn Wörter
訳:酒寄進一
イラン出身者の、ドイツ語作品。

ペルシャの系譜で[革命前夜の子どもたち]世代を想起すると、
シャードルト・シャバン(フランス語)
マルジャン・サトラピ(フランス語)
レザー・アスラン(英語)
といった面々が私には馴染み深いのだけれど、ドイツ語圏の作品というのは未知だったので、メソポタミア神話からクマルビ神話群、アラビアを経てシャー・ナーメに結実した言語の旅が、ニーベルンゲン物語と邂逅するような、そんな胸高鳴らしめる妄想と共に、この本が出版される日を心待ちにしていた。

『十六の言葉』のエブラーヒーミーは、年代的にイラン・イスラーム革命の強い影響を受けている世代ではあるけれど、革命そのものの直接的記憶はないと思う。
例えばサトラピの『ペルセポリス』を読んだ後に観るジャファール・パナヒの『チャドルと生きる』には、およそ20年後の未来だとは思えない強烈な苦みがあった。
そういった意味で今作には、革命の苦い記憶ではなく、同時代人の生をこそ強く感じた。主人公モウナーの祖母の中に、私は私自身の祖母の姿が見えたし、言葉というものは存在を縛るものだったなと改めて思い出した。『百年の孤独』で描かれていた、川床に広がる「名付けられる以前の、原始の卵のような白い石」のあの感じだ。

主人公モウナーが「ドイツ語ーペルシャ語」の翻訳に際して時折感じる居心地の悪さ。
「書くという行為は、曰く言い難いものをすべて破廉恥なもに変えてしまう」と言っていたのがシャモワゾーだったか誰だったか思い出せないのだけれど、その言葉とマリアテギの事が『十六の言葉』を読んでいる最中、頻繁に思い出された。

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