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わたしらしさの錯覚 【青二才の哲学エッセイ vol.24】

 マッチングアプリを始めた。
 まずは写真を設定する。私より前にやっていた友達によると、ここが一番大切らしい。着飾ったものでなく、「一緒にいる時にどんな感じなのかがイメージできる写真が一番いい」と言う。いくつかこれはどうかと見せて相談した結果、居酒屋でビールを飲みながらカメラ目線になっている写真にした。顔の全部が写っているわけではなくちょうどいい気がする。よく残しておいたと自分を褒めてあげたい。
 次に自己紹介文を書く。自分をアピールするってどうすればいいかわからない。ご親切に「他の人気会員のプロフィールを見る」というリンク先があるではないか。しかしこれは私にとっては参考にならなかった。みんなあまりにもキラキラしすぎている。リア充だ。一人の時間が好きな私がこんな風に書いたとて「いかにも真似しましたよ」という感じになって気持ち悪い気がした。とりあえず、今やっていることやこれからやりたいこと、好きなことをメインに、「自分らしさ」を大切にする気持ちで書いてみた。

 1週間くらい経ってから、なんとなく見返してみた。なんだろう、この気持ち悪さは。私の自己紹介文はどこか「痛い」感じがする。
 「ちょっとクリエイティブなところありますよ」「変わった感性持ってますよ」みたいなものが文章からにじみ出ているような気がした。「他の人とは違う」ということを殊更にアピールしているように見える。大したことしてないくせに何を偉そうに。こんな薄っぺらいものが自分らしさなのか。人気会員達に対する妬みも背景にあるのかもしれない。とりあえずいったん全部消した。

 最初に書いている時には自分のことをありのままに文章にしているつもりだった。でも改めて見返した時には、どうも正確に自分のことを表せている気がしない。どちらかと言うと「こういう風に見られたい」が先行しているように見える。さらに言うと「ああいう風になりたい」に自分を合わせにいっているようだ。多分そこにはクリエイティブ的なもの、また、そういうことをしている人達に対する憧れがあるのだろう。その輪の中に私は入りたいのだろうかと思える。実際にその輪を見たことはないのに。勝手に自分の思い込みで作り出したものだ。そもそも創作って手段じゃないのか。いわゆるクリエイティブな人になることがあなたの目的ですかと言われるとなんか違う気がする。「こんなものが作りたい」とか「周りにこんな影響を与えたい」とかいう目的が大きくあったはず。時間をかけていつの間にか私の中ですり替わっていたのかもしれない。

 また、「ああいう風になりたい」と強く願うとき、今までの自分が積み重ねてきたものを忘れがちだと思う。変身願望が芽生えるのは、今の自分を否定したい部分があるからなのだと思うが、どんなものであれ過去の行動や経験で染み付いたものは取り除くことはできない。(他人からの自分の過去の印象はまた別の話だ)達成された目標たちは自分にとっては当たり前のことすぎて魅力的に映らないかもしれないが、武器であることに変わりはない。たまには立ち止まって客観的に自分の武器の棚卸しをすることが必要なのではないか。大抵は今の自分の感情に合わせて、ある一部分だけを切り取り、そこに重みをつけすぎている。

 今もたかだか自己紹介文一つで右往左往している。アプリの中とはいえ、たくさんの女の子が「そこにいる」からなのだろうか。どんと構えていたいなぁ。

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