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仮面を使い続ける理由 【青二才の哲学エッセイ vol.5】

年上の方と話しているときに「落ち着きがあるね」とたまに言ってもらえる。こう言ってもらえると結構嬉しい。童顔で若く見られることの多かった私は、せめて立ち居振る舞いだけでも大人っぽく見られたいと思っていたからだ。はっちゃけるのが苦手というのもある。とにかく、「落ち着きのある自分」を演出しようとしている節がある。「落ち着きがあるね」と言ってもらえたら「演出成功!」という感じだ。「こいつ落ち着きのある自分を見せようとしているな」と見抜かれているかもしれないけれども。もともと喜怒哀楽が激しいので、ボロが出るのがちょっと怖くて多用はできないが。

私は、社会を生き抜く上で自分が有利な状況になるように、また、自分が傷つかないように、自分で自分を意識的にコントロールしていることがほとんどのように感じる。どう見られるかを気にしながら、いろんな仮面をその場その場の状況によって付け替えることが多い。客先に営業に行くときはニコニコしながら可愛げのある感じを演出し、発する言葉に角が立たないように気を配る。おしゃべりが好きな人の前では聞き手に徹し、笑ってほしそうなタイミングで笑う。意図的にふざけたり、下ネタを混ぜてみたりすることもある。私は本当は自分でも嫌になるくらい気性が荒くて、なおかつクソ真面目すぎる人間なので、落ち着きを出すのも、ふざけるのもだいたいは作り上げた仮面だ。うまく社会に適応できているとするならば、それは練習の成果の賜物である。一朝一夕にいい仮面は作れない。

これまでいろんな仮面を試してきた。その中にはつけ心地の悪い仮面もあって、そいつをつけていると本当に疲れる。大学生の時のサークルのノリには本当についていけなかった。その場にあう仮面を頑張って用意していたつもりだけど、似合わなすぎて陰で笑われていたかもしれない。仮面は身の回りの人たちに合わせて作り上げることを前提とするように思う。仮面をつけるなら、出来るだけつけ心地のいい仮面をつけていたい。どんな環境に身を置くか、どんな人たちが周りにいるかは、仮面とともに生きる私にとって非常に大事な要素だ。

よく「ありのままの自分でいようよ」みたいなメッセージを聞くけど、私にそんな勇気はない。誰かしらありのままの自分を受け入れてくれる人がどこかで現れるかもしれないが、身近な周りの人たちに受け入れられないのは耐えられない。いろんな人と仲良くしたいし、認められたいし、なるべくいいように扱ってもらいたい。いろんな人に認められる自分が好きだ。要するに私は八方美人なのだ。仮面を被らないのも疲れなくていいのかもしれないけど、周りからの評判が悪くなると多分メンタルが持たない。これからは仮面を使わないで生きると仮定し、今付き合っている人たちの反応がどうなるかを想像するとゾッとする。こういうのを全く気にも止めない、ありのままでいる人たちももちろんいるだろうし、そういう人は才覚があるイメージを勝手に持っているが、私は気の小さな凡人である。社会に合わせず生きていける気はしない。

息苦しい自分でいることはもちろん精神衛生上良くないけども、いつもありのままでいる自分になるのもそれはそれで大変である。つけ心地のいい仮面と居心地のいい環境を模索していくのもそれはそれでありかなと思う。物書きとしての仮面はうまくいくだろうか。うまくいくといいなあ。


【モヤモヤの泉】

・仮面とは過度に周りの空気を気にする風潮からくるものなのか。同調圧力も関係するか。
・社会が変わるべき点もあるのではないか。
・仮面と性格はどう違うか。
・仮面と言うと自由に自分をコントロールできるようなニュアンスがあるが、それはそれで驕りでは?無意識のうちに出ていて、他者にしか気づかない自分の性質もあるのでは。
・私の言う仮面は「環境への適応」や「理性」とはまた違うか。
・みんながみんなありのまま過ぎても、社会がうまく回らない気がする。
・どこまでが仮面の私で、どこからがありのままの私か。
・ありのままの私とはなにか。

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