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掌編小説:履物

天候が回復したらしいので土間で履物の手入れをしていたら義父が来た。

先月に連れ合いを亡くしてから、よほど暇なのか頻繁に顔を出すようになった。寂しいのでしょうから堪忍してくださいねと妻が笑って言う。もちろんだよ、と笑顔で答えながら義父を見た。

昼間だというのにもう酒臭い。呂律が回っていない。声が聞き取りにくい。垢じみた上着の襟首が汚らしい。排水溝に溜まった泥のような臭いがする。自分はこの男が大嫌いであった。

どうぞお父さんお上がりになって、と妻が言った。

内心で舌打ちをしながら自分もそれに倣った。今日は寄らんつもりだったが、じゃあちょっとお邪魔するかな、などと白々しく言いながら義父が履物を脱いでいる。

屈んだ拍子に義父の向こうに足跡が見えた。朝に降った雨のせいだろう。履物は泥水で汚れていた。

この汚れでは靴下までも滲みてはいないだろうかなどと考えている間に、義父は自分の横をすり抜け奥へと進んでいった。一昨日のように勝手に仕事机に触られては敵わない。慌てて後を追おうとして、義父の履物が乱雑に脱ぎ捨てられているのに気がついた。

大の大人がみっともない脱ぎ方をする。このままにして後に誰か来客があったら、きっと不快に感じるに違いない。何より自分自身この状態を放置しておくことができそうもない。

手を伸ばしかけて止めた。
そのまま、そっと背後を見る。遠く奥の間から上機嫌な義父の声がした。自分が来ないことを訝しがっている様子はない。静かに胸を撫で、改めて義父の履物を凝視する。寒気がした。

汚い。
側面部に丸く色の抜けた染みが発疹のように幾つもある。
くたくたに萎れてしまっていて元の素材が何なのか分からない。おぞましい。よく見てみれば似ているが左右互い違いである。粗忽も甚だしい。

踏み付けられた踵からは内側の生地が粉になって零れている。とても素手で触れるような代物ではない。

解けた右足の靴紐が針金虫のように見えなくもない。ますます触れない。
玄関先に飾ってある鉢植えから添え木を抜き取り、それを使って向きを変えることにした。この添え木は処分しよう。妻には誤って折ったと言えばいい。

添え木は一本しかないので、片方ずつやっつけていくよりない。
右足の踵に合わせてゆっくりと力を加えてみるが、泥水を吸った履物は重く、なかなか素直に言うことを聞いてくれない。畜生。こんなものまで持ち主に似てやがる。とはいえ、力を込めて動かしてあらぬところに行ってしまっては掃除の範囲が広がりかねない。

履物と土間とが擦れて、ざりざりと厭な音がする。
背後から下手な詩吟が聞こえている。五月蠅いことこの上ない。
額と背中に汗が浮いてきたところで、ようやく右足が正しい向きに直った。半円形の泥水の跡が汚らわしい。後で水を撒かねばなるまい。いや、水を撒くだけでは足りない。いっそ、たわしも掛けよう。

ようやく左足分も整えたところで、顔を上げると義父がいた。真顔のまま、じつとこちらを見下ろしている。

妻の声が聞こえ、義父の表情がはたと緩む。
詩を吟じていて思い出したが、今日は囲碁の約束があったのだと笑った。冷たい汗が背骨をえぐるように流れていった。

そうですか、お義父さんとの将棋を楽しみにしていたのですが残念です、と心にもないことを言ってみた。
義父はすまん、また来るからとやはり上機嫌で言いながら履物の上に足を乗せた。踏み付けられた履物から、じわじわと汚水が滲み出てきた。まるで腐った果実である。

二、三回踏み付けた後、あれ、向きが違うと義父が言った。一旦足を履物から離すと爪先で器用に回転させ元の位置に戻し、汚いそれを履いて帰っていった。

馬鹿馬鹿しい。履物を揃えるのはもうやめようと思った。

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