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老人はこうしてつくられる


こちらはこの前にアップした
「老いと尊厳」
https://note.mu/somi_hongo/n/n2137adfba299

と言う記事の続きです。


こうして老人は
つくられていくのだろうか?

こうして繰り返し
老人扱いされることで
老人になっていくのでは
ないのだろうか?

そんな考えが浮かんだ。

もちろん脳の働きが鈍り
記憶力が落ちたり、

耳が遠くなったり、

体がこれまでのように
意図した通りに動きづらくなったり

が老人らしさを
形作っていくのはわかる。


すでにその兆候は
50代後半の私にも現れている。

自分の中に確かに感じる「老い」

それは40代のそれとは
全く違う。

人生の終盤に向かう匂いがある。


しかしもしかしたら
実際の衰えに上乗せした社会からの
押し付けで

「老人」というアーキタイプが
出来上がっていくというところも
あるのではないのだろうか?

私は考えた。

フェミニズムの立場から
女性解放をうたった
ボーボワールの

「女は女として生まれない。
女になるのだ」

という言葉を思った。

女は個であることをゆるされず
社会的に期待された女という役割を
演じるように仕向けられることで
女は女と呼ばれるような傾向と嗜好、習慣を
持ったものになる

という意味だと
私は解釈している。


私が、罪も悪気もない看護師さんが
発した言葉の中に

母に

「老人という役割を演じろ」

という
無意識のうちの強要を感じたのは
この看護師さん一人のリテラシーの低さではなく
未だ社会にある

老人とは、、
どう振る舞い、
どう扱うべきか、

というものを
この看護師さんは表現しただけだと
私は捉えている。


本来の高齢者たちはみな、
ネイティブアメリカンやシャーマニズムなどで
いうところのエルダー、長老的なものとして
敬意を持って扱われて欲しいし、

高齢者たちもまた
愛と知恵を次世代につなぐ者としての自覚を
持つのが私の理想だ。

賢者で長老。

それは男性も女性も一緒だ。

年を取ることで人は
中性へと近づく。

それはすべての女性的、男性的
特質がなくなるということではない。

統合されていく、ということだ。

と同時に、賢者だの長老だの
これまたアーキタイプや
理想の形に縛られることなく

自分らしく自由に生きて欲しいし、
私もそうありたい。

私の中に大きくある
賢者の逆とも言える
「愚者」のアーキタイプもまた
潰すことなくオーセンティックに生きたい。


それでもさらに高齢になり
本格的に体が言うことをきかなくなって来れば
物理的にはまわりの人に頼って
生きねばならぬ日が来る人も
少なくないだろう。

それでも年老いては
体がきかなくなるまで生きた、
というその事実だけでも、

人は尊敬されるに値すると
私は思うのだ。

長く生きた、

ただそれだけで!!!

何があってもどんな状態であっても
下の世代の者たちは彼らに対して、
その尊敬を表現することが
私たち人間の本質からの動きだと私は思う。

もちろん私がいつも母に対して
敬意を払って暮らせているわけではない。

少し遠くなった耳でなんども聞き返されれば
少しだがイライラすることもあれば
意見が食い違いキツイ言い方に
なってしまうこともある。

それでも自分を産んでくれた人
命を繋いで来れた人、
その身を捧げては育てて来れた人、
自分より先を、前を行くもの、

としての尊敬は
やむことはない。

そして私がこんな心境で居られることが
どれだけ幸運か、

ということを病院からの帰り
タクシーの運転手さんと話すことで
思い出させてもらうことになる。

(続く)


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