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《「時間」についてvol.0》ガルボはもう過去に属している。

金沢行きはくたか553号は、8時18分に大宮駅を出発した。松本に定例の仕事があり、毎月一度はこの新幹線に乗るようになった。

改札のなかのキオスクでコーヒーとガルボ(ホワイト)を買い、乗車。最近考えていることを書いてみることにする。

仰ぎ見る遠い先輩や近くにいる後輩、周りにいる人たちはみな頭がいいなとか、プロだなと思うことが多い。みな色々なことを知っていて、それに自信を持っている。

僕は、あまりにも自分が何も知らなすぎたり、本来すべきだったことをしてこなかったことにクラクラしている。こりゃまずいと思って、何かひとつテーマを決めて自分なりに取り組んでみようと、「時間」について調べ、まとめていくことにした。なぜか。

ここ数年、「なくても生きていけるものを通じて、気持ちがうれしくなる時間と場所をつくる」という目標をつくって、それをベースに仕事に取り組んでいたけれど、そもそも「時間」とは何か?の定義がぼんやりしていた。

「時間」とは何か?は過去の偉人たちにとっても大きなテーマで、物理学、哲学、文学、実用書など、様々な切り口で「時間」をテーマにした作品があり、論集がある。「モモ」は《時間と主観》の物語だし、「1Q84」は《時間と交差》の物語だ。

いま、時間本を読み進めて5冊目くらいになったのだが、とりあえず10冊くらい読むと、なんとなくの傾向や自分なりのとっかかりが見えてきそうな気がしてきている。

最近noteの更新があまりできていなかったけれど、自分なりの「時間論」を不定期に書いていきたい。タイトルはどうしようか。とりあえず決まるまでは「時間について」にしよう。

いま読んでいる真木悠介「時間の比較社会学」のなかで、アフリカ人の時間感覚について語る場面がある。彼らの時間感覚は、いわゆる「過去ー現在ー未来」ではなく、ササ(今この時、ちょっと先・ちょっと過去)と、ザマニ(ちょっと過去・過去)という二つの考え方で成り立っているという。

まだ自分に染み込んでいないので詳しく語れないが、その文化によって、時間の捉え方が大きく違うことに驚いた。自分が過ごしている今このときは、一体なんなんだろう。

朝、折坂悠太の「トーチ」を聴いていた。メインのメロディラインが変わらず、ベースラインとコードが変わっていく。とても美しい曲だ。そして歌詞をじっくり味わうように聴いていくと自然と涙が出そうになる。

お前だけだ その夜に あんなに笑っていた奴は

この歌のなかで、《自分》が《お前》のことを思い出している時間は、今なのだろうか。今と過去がぐちゃっとつながっているような感覚。変わることと変わらないこと。過去が、目の前にあるように感じること。

そして、曲の最後はこう結ばれる。

私だけだ この街で こんな思いでいる奴は

「時間」について調べ考えることは難しそうだけど、今までやってきたあれこれが、「時間」を軸にすっきりまとめられればと思う。自分への約束として、アウトプットをここに載せようね、という思いで書いた。

ガルボはすっかり食べ終えてしまった。ガルボはもう過去に属している。ガルボはとてもおいしい。新幹線、次の停車駅は上田。

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