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なぜ、私は本が好きなのか?

友達や恋人と会った後、自分の生き抜き力のなさに絶望する。

自分の弱さ、ずるさ、へたれさに嫌気がさし、ものすごくへこむ。途方に暮れる。こんなん勝てっこないよ、生き抜けっこないよ、と思う。よゆうで、どこかに属してお金を稼ぐことができず、病んで野垂れ死ぬ未来が想像できてしまう。

友達や恋人と会った後は、自分のことが本当に嫌いになり気分が落ち込むので、口数が自然と減る。

どうしてこうも自分は弱いのだろうかと思う。

みんなが当たり前に(装いながらも)できることを私は平気だと装うことすらできない。何かあれば、小さなことでもワーワー騒ぐし、弱音や愚痴を吐き、おおごとに仕立て上げる。じゃないと、このへたれはやってられない。このどうしようもなさは、両親に甘やかされすぎた結果なのかと錯覚してしまう。でも多分両親の育て方は普通だ。愛もあったが同時に確かなムチもあった。


心を許せる、信頼できる人といると自分の話ばっかりしてしまって、そんな自分を心底気持ち悪くて格好悪い人間だと思う。誰かに肯定されないとまともにたってもいられない。

自分のことを「生きるのが下手な人」と形容することに躊躇うくらいには、自分は醜い。


それでも自己防衛力だけは人より身についているので、徐々に心は回復する。

本を読んだり、ネットで色々な人のインタビュー記事を読んだりして、すでに自分の手垢がべとべとについたある思考に何かを加えたり何かを除いたりしながらこねくりまわし、思考にへばりついていた自分の汚い手垢をもみ消す。

そうすると、なんだか前向きになれる。私が触れる全ての言葉が私の生きる教科書になったりする。毎度言葉に救われている。

言葉に触れると、ありえない快感が自分の脳を貫くことがある。頭で色々考えながら言葉に触れると、アドレナリンがドバドバと出て、今こそが人生史上いちばんの幸せだと声に出してしまうことがある。

言葉や文章を楽しめるのは、思考をこねくり回す癖があるからなのかもしれない。思考をこねくり回すのは、自分が醜いという実感があるからなのかもしれない。

言葉や文章を楽しめるなら、自分が多少なりとも醜くてもいいのかもしれない。言葉や文章を楽しめることが、醜い者の特権といったら、さすがに言い過ぎだろうか。

動的なものに注目が集まりがちなこの世界で、本の中、記事の中で半永久的に静止した文字からなる言葉・文章というものに対峙して、思考を巡らせるということは、一見つまらないことかもしれない。

でも、それを人生史上1番の喜びと形容できるくらい楽しめるということは、結局動的なものが溢れた世界は私にとって刺激が強すぎるということで、私は静的な世界の中にいるので十分満足だということになり、私はそれに異論がない。

どうしようもなくへたれな自分の最後の希望は、思考をこねくり回せることであり、静的な世界の中でも生きていけるということだ。ということは、「静的な世界の中でも十分に楽しめる想像力を持っている」=「いつでも逃げ込める他の世界がある」から、私にはこの世界でうまくやり過ごしながらなんとか楽しく生きていく力があると結論づけてみてもいいだろうか。

それはそうと、本や記事を読んでいると、ものすごく共感することがある。

おこがましくも、この筆者は過去に今の私と同じ思考の道を辿ったことがあるのではないか?と夢想する。それだけでだいぶ救われる、と共に文章や言葉に触れる新たな意味を見つけられありがたくなる。

それは、仲間(と仮定できる人の存在)の発見。色々な場所にいた、もしくは今もいる仲間によって創出された文章・言葉の歴史。尊すぎるし、宝物すぎる。

まずは、静的な世界の市民権を得るために、古典もなるべく沢山読んでおこうと思う。


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