読むことについて

昨晩洗い物をしたのは確かに覚えているのに何故か机の上に使った後の食器が残っている。
私は昨日何を洗っていたのだろう。

それはさておき、小学生の頃から本を読むのが好きだった。

小3の時は昼休みに一人で本ばかり読んでいるので担任から親に友達がいないと報告があったらしい。

読書の習慣は高校まで継続しており、常に何かを読んでいた。

文章を読むのを習慣化していたおかげか国語がすごくよくできた。

国語ができるというのはどういうことかを考えてみる。

国語の基本というのは文章を読むことだ。
大体のテストは文章を読んだ上で、文章内容を正確に理解できているのかを確認するような問題が出される。

では文章とはなにか。

文章とは書いた人の思考である。
「作者の気持ちを考える」は文系をバカにするニュアンスでも使われるが、思考の過程を数式で表すのが数学・文章で表すのが国語である。

このことに気づいたのは大人になってからで、高校時代の私は数学が食わず嫌いでからきしだった。

気持ちを考えるというのは確かに語弊のある言い回しかもしれない。

人間は頭の中にぼんやりとあるものをそのまま相手の頭に送ることができない。
頭の中のぼんやりに形を与えて伝達可能な形にしたものが言語である。
国語や数学の区分は伝達手段である言語の分類ではないだろうか。(こんなこと研究してる人が世の中にはいそう)

数学はあまり詳しくないが、決められたパターン(公式)を使って思考を表現している。

LEGOのようなものだ。決められた形の部品の組み合わせで目的のものを作る方法を検討する。

それに対して国語というのは決められたパターンは数学ほど多くはない。(三段論法とかいわゆるお決まりみたいなのはあるが…)

粘土のようなものでどんな形にもできる。

プロセスは異なるが例えば家を建てるとなった時、LEGOでも粘土でも必要な部品は変わらない。
屋根、外壁、玄関、窓、、、
構成する要素を分解してパーツを作って組み合わせて家を建てる。

前置きが長くなってしまったが何故読書が良いのか、だ。

読書とは他者の思考を言葉を使ってアウトプットしたものを読み取るという行為だ。
つまり読むことで思考の過程をなぞりこの人はこう考えていたのだなというのが察せられるようになる。

解像度の低い文章は文学作品、解像度の高いものは論文チックになるのだろう。

アカデミックな論文は読むこと事態に事前知識が必要な場合が多いが、文章としてはわかりやすく伝えることを目的としている(=つまり簡単!)
逆に文学作品は普通にスラスラ読めるようになっているが、簡単に筆者の思考は読み取れない。(=つまり難しい!)
国語の授業でいきなり評論から教えないのは、前提知識による部分もあるだろうが解像度の低い作品に触れることが思考の強化に役立つからではないだろうか。

思考のパターンに触れることで、相手がなにを言っているのかがわかるようになる。自分自身が考えていることをどうアウトプットすればわかってもらえるのかがわかる。

世の中は自分の中と外だ。
思考が言語化されることで中と外がつながる。
国語でも数学でも良い。言語化する術を磨くことが社会や国家の一員たる要件になっている。

本を読むことは手軽にその技術を学ぶきっかけになっていた。

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